生きるための自傷行為とは
この記事の中で、私が自傷行為をしていた頃のことを少し書いた。
今回はその頃の私の心理状態、自分を傷付けた理由、今になって思うことなどを書いてみたいと思う。
※この記事には生々しい自傷行為に関する表現があります。精神的に不安定な方、影響を受けやすい方は閲覧を控えるなどご注意ください。
まず、「自傷行為」と死ぬことを目的に自分を傷付ける「自殺未遂」は別物としてこの記事では扱う。
私が自傷行為を始めたのは、うつと診断されて3年ほど経った頃のことだった。
しかし実は、中学生の頃も自傷行為っぽいことはしていた。
剃刀やカッターなどで、手首や胸元を傷付けるのだ。
服で隠れる場所なのがミソで、つまり傷に気付くのは家族くらいしかいない。
当時の私は、家族の中に居場所がなく、寂しい思いをしていた。
なので心配してもらいたくて、気にかけてもらいたくて、自分を傷付けていた。
よくあるかまってちゃんのリスカだ。
けれど、うつと診断されてからのそれは違った。
きっかけは、当時ブログなどを通じて知り合った友人の何人かが精神を病んでいて、自傷行為をブログで報告しているのを見たことだった。
精神的に不安定な時、落ち込む出来事があった時、自傷行為をすることで落ち着いたと書かれていた。
そんなに効果のあるものなら自分もしてみたい、そう思った。
まるで違法薬物に手を出すのと同じような構図だが、実際に私はどんどん自傷行為がエスカレートしたし、行為自体に依存するようにもなった。
中学生の頃と明らかに違ったのは、服を着ていても目に見える手の甲に近い場所にも傷跡を作っていたことだろう。
当時の私には同居人はいたが両親とは離れて暮らしていたため、家族だけに見える場所に傷を作る必要はなかった。
そもそも、誰かの気を引くことが目的でもなかった。
自分を傷付けること、その行為自体に安心感をおぼえていた。
当時の私は、自己嫌悪、加害妄想、他人を傷付けることや嫌われることへの恐怖がとても大きかった。
自己評価がとてつもなく低く、自分を罰せなければならないと思っていた。
その自分を罰する行為のひとつが、自傷だった。
痛みが、流れ落ちる血液が、自分の罪を軽くしていくような気がしていた。
行為がエスカレートした私は、毎晩のように風呂場で自傷を繰り返した。
洗面器にお湯をためて、そこに左腕を突っ込んで、お湯が真っ赤になるまで切った。
何度か傷が塞がらなくなり、外科で縫合してもらったこともある。
最終的には切りすぎて皮膚が非常に薄くなってしまったため、次はもうこれ以上縫えない、傷が塞げないとまで言われた。
結果的に私の左腕は肘の近くまでびっしりと傷跡だらけで、ケロイド状になっている。
傷跡が赤く引き攣れていた頃はあまりに見た目が醜いので、半袖の服など着ることができなかった。
現在は傷の色も肌色になり、近くで見なければあまり気にならないため、半袖の服も着るし、何か聞かれた時は怪我や火傷の痕だと答えている。*1
最後に自傷行為をしたのは、この記事の時だと思う。
しかし、この時は明確に自殺をするつもりで傷付けたので、正しくは「自傷」ではなく「自殺未遂」である。
となると、私はもう少し早い段階で自傷癖から抜け出している。
理由ははっきりとは覚えていないが、「もうやめよう」と強く思ったことは確かだ。
「もうやめよう」と思うまでには時間がかかった。
何故ならそれまで、私は医者や家族に止められても、「私は生きるために切っているのだ!」と強く主張していたからだ。
実際、自分を傷付けることで自分を罰し、そして心が軽くなっていた。
自傷行為をしていなかったらどうなっていたかは分からないが、もしかすると心が壊れていたかもしれないし、もしかすると傷付ける対象が自分以外に向かっていたかもしれない。
なので、私は今自傷行為をやめられない人に対して、非難はしない。
否定もしない。
けれど、肯定もしない。
できれば早く、「やめよう」と思ってほしい。
それを行動に移してほしい。
きっと、自傷行為をした後で後悔の念に苛まれる人も少なくないと思う。
私もそうだった。
「やめよう」と思っても、本当にやめるまでには時間がかかった。
とにかく強い意志が必要なのだと思う。
禁煙やアルコール依存症と同じようなものではないだろうか。
そしてもしそうだとしたら、周りの人間は責めるのではなく、理解してあげてほしい。
自殺未遂は別として、「死にたい」ではなく「生きたい」と思って自分を傷付けている人は多いと思う。
そんなことして自分を責めなくても許されていることを、伝えてほしい。
そして自傷行為をやめようと頑張っているなら、今日も我慢できてよく頑張った、と褒めてあげてほしい。
以上はあくまで私の体験をもとにした個人の意見である。
全ての自傷行為をする者に当てはまるとは限らない。
ただ、私にとっての自傷行為は「生きるための躊躇い傷」であったと、今振り返ってみて思う。
田舎の障害者支援施設
以前書いたこの記事と、少し関連する内容になる。
私は田舎に住んでいるため、障害者と交流する場というものが少ない。
各市などの保健課に相談すれば、障害者支援の施設を紹介してもらえる。
私の住んでいる市には、いくつかの障害者支援施設がある。
知的、身体、精神それぞれの作業所や、生活支援などの施設だ。
私は精神障害者手帳を持っているため、精神障害者ということになるが、作業所で職業訓練をすることなくバイトを始めた。
体験として何度か足を運んだこともあるが、他人とのコミュニケーションが極端にできないなど、とにかく私よりも社会への適応が難しそうな利用者が多く、私の居場所ではないように感じた。
とはいえ、私もバイトを始めるまでは数年間、寝たきりの引きこもりニート状態だったのではあるが。
また、三障害の当事者や家族などが交流をすることができる施設にも、足を運んだことがある。
活動の内容としては、お茶やお菓子をいただきながら世間話をする他、料理、工作、軽スポーツ、ゲーム、DVD鑑賞などがあった。
いずれにせよ、知的や身体の障害者が多いので、彼らが参加しやすいルールや難易度となっている。
つまり、私にとっては「楽にできすぎてしまう」のだ。
それが特に顕著だったのが、カードゲームをした時だった。
まずはカルタ取り。
人数がそこそこいたため、一組のカルタではすぐに終わってしまうし面白くないとのことで、支援者の方が三種類のカルタを混ぜてのプレーを提案された。
最初は私も枚数の多さに戸惑い、皆と同じペースでカードを取っていた。
しかし、枚数が半分くらいになった頃だろうか。
三種類のカルタはそれぞれ内容が違うため*1、読み札の内容からすぐにどの取り札かが分かってしまう。
知的障害者が大半を占める中、私は順調に枚数を増やした。
案の定、私は他の障害者たちにダブル、トリプルスコアを付けてぶっちぎり優勝してしまった。
そして、トランプだ。
ババ抜きや神経衰弱など、運も大きく絡むものはそれほど差がつかない。
問題は、若干の戦略が絡んでくる七並べのようなものである。
私は「6」や「8」で止めるという戦略を誰しも知っているものと思い、使ってしまった。
しかし結果的にその戦略を知っている知的障害者も支援者もおらず、私の一人勝ちとなってしまった。
身体障害者も支援者と二人一組で参加していたが、誰も知らなかったようだった。
つまり、精神障害者というのは三障害の中でも孤立しやすいのだと思う。
特に、見た目では健常者と変わらない双極性障害や重度のうつという場合などはそうだろう。
精神障害者だけのコミュニティがあれば、多少は違うのだと思う。
実際、全国のレベルで見てみればノーチラス会など、双極性障害の当事者・家族会は存在する。
しかし田舎で精神障害者と知り合うことは、非常に難しい。
まず、引きこもっている者が多いため、外に出ない。
他人の目を気にして障害者であることを隠している。
精神的に他人と関わりたくない気分である。
その他色々な理由があるだろう。
都会であれば、絶対数が多いので障害者同士コミュニケーションを取ろうとする者と出会う機会は増えると思う。
SNSで知り合うこともできる。
田舎では絶対数が少ないことに加え、SNSを利用している者も少ない。
何故なら、平均年齢がものすごく高いのだ。
多くがガラケーユーザーなのだ。
結局、精神障害者と出会う場は、精神障害者の作業所か、精神病院しかない。
結果的に、私は交流会に行かなくなった。
バイトを始めたことで、時間的に難しくなったこともあるが、行ったことで何も実になるものがないことに気付いたことも大きい。
体験談を交換したくとも、相手がいない。
困っていることを相談したくとも、相手がいない。
とにかく、同じ立場、似た立場の存在が見付からないのだ。
田舎の障害者支援施設を利用して私が痛感したのは、「田舎の精神障害者は孤独だ」ということだった。
私が双極性障害と診断されるまで2
これの続きの話になる。
前回は、私が心療内科で「うつ」と診断され、カウンセリング中心の治療をしながら、改善の兆しが見えないままに一年が経とうとするところまで書いた。
そして私がある決意をした、というところで終わっていたと思う。
その決意を、私は心療内科医に伝えた。
「薬物治療をしてください。薬を処方してください」
カウンセリングだけでは無理だと思い、薬物治療を頼んだのだ。
そろそろ病院にかかって一年が経とうというのに、そして春からは一応復学予定なのに、体調が改善しない。
最後の頼みの綱として、薬に頼ろうと思った。
最初は軽い抗うつ剤を処方された。
頓服や入眠剤も出してもらった気もするが、もう少し後だったかもしれない。
しかし、その抗うつ剤がどうにも身体に合わず、副作用で頭痛や気分の悪さなどが耐えられなかったため、すぐに打ち切りとなった。
結局、二週間ほどでカウンセリング中心の治療に戻った。
翌年の4月、私は大学に復学した。
一年遅れての二回生である。
年齢的には浪人生と同じなので、そこまで浮くことはなかった。
大学生活を堪能しようと、サークルにも入った。
授業は休みがちだったが、サークルにはなるべく顔を出すようにしていた。
ちなみに音楽好きが高じて音楽系のサークルだったが、割とゆるく、打ち上げだの親睦会だの飲み会が多かった。
サークルに入ったことで大学生活を本当に楽しめたし、夢見ていた青春を味わえた気がする。
しかし、授業には出られない日も続いた。
この年の秋、ゼミ担の教授が私と少し話をした。
教授にも引きこもりのお子さんがいるようで、私の状況にも理解があった。
今後どのような勉強がしたいか、将来どのような職業に就きたいか、色々話した。
教授は最終的に、私にこのような言葉をかけてくれた。
「あなたの歩みは人よりゆっくりなのかもしれない。ならば、人が4年かかって卒業するところを、8年かかって卒業しなさい」
これが私の目標となった。
さて、この年から私は新たなジャンルの同人サイトを開設し、そのサイトを通してできた友人との交流を始めた。
秋頃にはそれまで同人誌即売会といえばオンリーイベントにしか参加したことがなかったのだが、初めていわゆる赤ブー系のコミックシティに参加した。
これを機に、2、3ヶ月に一度定期的にコミックシティやスパコミに参加することになる。
当時のジャンルはまだジャンル人口も多く、個人主催のオンリーもあり、本もそこそこ売れた。
自己承認欲求を満たす意味では、非常に意義のある行為だったと思う。
また、音楽ブログの閲覧者、訪問者数も増えていた。
ネットの世界ではそこそこの有名人になりつつあった。
有名ブロガーさんと対等な立場でやり取りができることが、とても嬉しかった。
その一方で、現実世界では相変わらず学校に通えなくなっていた。
サークルにも、顔を出さないことが続くこともあった。
この年から同居人ができたため二部屋のアパートを引っ越し、家事の分担も始めたため、洗濯物がたまるとかゴミ出しが滞るとかいったことはなくなった。
買い物には行けないこともあったのでそういう時は同居人頼みであったが、私の分担である食事作りだけはなるべくこなしていた。
同居人に、学校に行かないことを咎められたり責められたりもした。
入浴の時間が遅い、台所を片付けない、などと迷惑かけたことも多々ある。
本当に申し訳なかったと思う。
そんなこんなで「うつ」と診断されて、3度目の冬がやって来た。
とりあえず翌年は進級し、三回生として大学に通うことになった。
しかしこの冬、私はこのあと数年間自分を苦しめることになるあることに手を出すことになる。
自傷行為である。
始めは剃刀でうっすら傷跡を付ける程度だった。
そこからだんだんエスカレートし、何度も何針も縫合されることになったり、傷跡を隠すためにリストバンドや長袖の上着が手放せなくなってしまった。
リスカ、アムカで満足できなくなった私は、太腿も傷付けた。
自傷行為に関しては、また改めて詳しく書こうと思う。
とにかく、自傷行為を始めた時期がこの頃だったことだけ書き記しておく。
大学三回生になった私は、比較的順調に学校に通い始めた。
もちろん休みがちではあるが、ギリギリ単位は取れるくらいのペースである。
しかしその数か月後、急転直下の出来事が起こる。
晒し被害だ。
私の音楽ブログが、暴言と共に2ちゃんねるに晒された。
このことで私は疑心暗鬼になり、周りの人間の目が怖くなり、完全に外出できなくなってしまった。
もちろん、学校は休み続けるしかなかった。
その後、私は病院を変え、本格的に薬物治療を始めることとなる。
時を同じくして、以前の記事で紹介したY先生のカウンセリングを受け始めた。
しかし私の症状は、どんどん悪化していくこととなる。
私が双極性障害と診断されるまで1
双極性障害に限らず、精神疾患というものは判断が非常に難しい。
私の場合、初めて心療内科で「うつ」と診断されてから精神科で「双極性障害」と診断されるまで、実に5~6年もの時間がかかっている。
もっとも、私の主治医*1からは、「あなたは病気ではないけれど、双極性障害によく似た症状が出ているので便宜的に病名を付けている」と言われている。
普通の状態を「5」、うつのどん底を「0」、躁のピークを「10」だとすると、確かに私の精神状態は0から5までの間を目まぐるしく移り変わっていることが多い。
ただ、感情の波が激しく、スイッチが入るといくらでも集中して一つの物事に取り組む、アイディアが湧き出して止まらなくなる……などの躁の特徴もあるにはある。
何より、双極性障害の治療に使われる向精神薬を処方され、一定の効き目が出ている。
なので、主治医による見立ての正否は今回、あまり深く考えないこととする。
さて、私にうつのような症状が現れ始めたのは中学の頃である。
思春期独特の精神的な不安定さかと思っていたが、今思うとそれにしては異常だった。
将来を悲観したり、生きる目的を見失ったり、家では自室にこもりきり、休日はずっと寝ている……そんなことが2、3年ほど続いた。
高校生になり、今思えば片想いしていた同性の友人と縁を切ったことからクラスで孤立*2したことがきっかけで、学校を休みがちになった。
高三の時、縁を切った彼女と同じクラスになったことから私は完全に不登校になり、保健室登校を経て何とかクラスに戻れるようになり、先生方のご好意もあり大学受験、高校卒業という目標を達成することができた。
このことについてはまた詳しく書こうと思う。
心機一転、私は大学生となった。
親元を離れ一人暮らしを始め、順風満帆に思えた。
しかしその年の冬、急に大学に行けなくなる。
気持ちが沈みがちで、家にこもりきり、徒歩数分のコンビニでカップ麺やおにぎりや菓子パンを買う以外はほとんど外出することがなくなった。
入浴することも億劫で、三日に一度、ひどい時は週に一度入ればいい方だった。
週に一度か二度コインランドリーに通っていたのも行けなくなったために洗濯物もたまり、替えのパンツもなく、洗面台で洗ってベランダに干して穿いたりもした。
そんな私の状態を見かねて親が私の家を訪ね、身の回りの片付けと掃除、洗濯、それから私を銭湯に連れて行き、心療内科の受診を勧めた。
高校の頃不登校だった時にカウンセラーを紹介してもらった医師を介し、大学に近い病院のカウンセラーと心療内科を紹介してもらった。
初めての心療内科。
「うつ症状」と診断された。
カウンセリングを中心に治療をしていこうと言われた。
心療内科医の診察は、毎回3分程度で終わる。
「食欲はあるか?」、「ちゃんと寝ているか?」、「妊娠はしていないか?」、この三つの質問に答えればおしまいだった。
最初は薬も出してもらっていなかったので、カウンセラーとの面談が私の治療のほぼ全てだった。
カウンセリングでは、色んなことをした。
バウムテストのような絵を描くこともしたし、箱庭も作った。
しかしその行為を通して私の心理状態を把握することが目的ではなく、私がその作業を通して心の中を整理するのが目的だったという。
昔の話もしたし、今興味のあること、好きなことの話もした。
しかし春になっても改善はなく、結局翌年は一年間休学することとなる。
ちょうどこの頃、一人暮らし生活に慣れた私はライヴに時折通うようになっていた。
学校には行けないけれど、ライヴには行ける。
矛盾しているように見えるかもしれないけれど、ライヴは私が唯一自発的に外出できる場だった。
例えば高熱で食べ物を受け付けない時、食事は摂れないけれどアイスやゼリーなら何とか喉を通る、みたいな感じといえば伝わるだろうか。
学校や買い物、病院、といった日常生活で出かけるべき場所が食事だとすれば、ライヴのような娯楽の場は喉を通りやすいアイスやゼリーなのである。
アイスやゼリーが食べられるならちゃんと白米を食べろ、というのは酷だ。
そう理解してほしい。
さて、休学が決まった私はひたすら家にこもって自分のできることをした。
大学に入ってから開設したアニメの二次創作小説サイトの更新、更に同人誌を作って即売会に参加する、時折コスプレ衣装も作ってコスプレもした。
また、TVをひたすら垂れ流していた。
深夜アニメや、ドキュメンタリー、それから教養番組が多かった。
ドキュメンタリーもそうだが、自分の知らない知識を得るという刺激が欲しかったのだと思う。
2ちゃんねるも見始めた。
当時は「半年ROMれ」を律儀に守り、最初は現行スレ、過去ログをひたすらROMった。
何故か都市伝説にも興味を持った。
都市伝説をまとめてあるサイトを片っ端から探し、口裂け女やテケテケなどから放送禁止となった伝説のお蔵入り放送などまで、とにかく読み漁った。
おかげで津山三十人殺しや狭山事件などにまで詳しくなってしまった。
元々音楽が好きだった私は持っているCDの感想を書き、それをブログで公開した。
当時はブログ全盛期で、音楽レビューやライヴレポを書いているブログが多数存在していた。
また、好きなアーティストも次々とブログを開設し始めたのもこの時期で、ブログを通じた交流も盛んだった。
そんな感じで私は引きこもりまっしぐらの生活を続けることとなった。
二週間に一度のカウンセリング以外は、相変わらずコンビニくらいしか外出しない。
出かけるといえば、ライヴか同人誌の即売会。
病状が一向に改善しないまま一年が経とうとしていた。
季節はいつしか秋になり、私は一つの決断をした。
「死にたい」と言ってるうちは大丈夫?
彼女のTwitterには何度も何度も「死にたい」という言葉が出てくる。
なのに何故、誰も彼女を救うことができなかったのだろうか。
実際、TwitterなどのSNSには「死にたい」という言葉が溢れている。
精神を病んでいる者の口癖のような「死にたい」、自分のキャパを超える出来事が起こったということを表現する「死にたい」*1、そういう者に混じって、本当に誰かに救いを求める「死にたい」も紛れ込んでいる。
「死」という言葉があまりに軽く使われていることが、原因のひとつなのではないだろうか。
そしてもう一つ。
「死にたい」と言っているうちは本当に自殺しない、と思っている人が、何故か多い気がする。
確かに絶対に自殺を完遂したい者は、誰にも内緒で命を絶つだろう。
しかし、最後の最後まで「死ぬしかない、だけど誰かに助けてほしい」とSOSを送り続けている者もいるのだ。
今回の女性も、私は後者だったと考える。
実際、私も「死にたい」とSOSを発した後、自殺未遂を起こしたことがある。*2
それはちょうど、東日本大震災が起きた直後のことだった。
私は全く被害のない地域に住んでいたし親戚も被災地にはいなかったため、逆に「こんなに大変な目に合っている人達がいるのに、自分には何もできない」と無力感に襲われた。
また、3月11日直後にもう何年も私のXデーともいうべきトラウマになった出来事の起こった日が控えており、毎年その日が近付くと精神的に不安定になっていた。
更に、そのXデーの前後に私はライヴに参加する予定だったが、震災のため延期となってしまった。
私としてはXデーに近い日付に楽しみを入れることで「生きる希望」を作ろうとしたのだが、それがなくなってしまった。
希望が奪われたことで私は、「もう生きなくていい」と運命が自分に告げているのだと感じた。
Xデーの当日、私はSNSに「死にたい」、「さようなら」、「私は消えます」などとこの世を去る挨拶のようなことを書き込んだ。
反応は全くなかった。
当たり前だ。
皆、私のことよりも、東日本大震災の被災地の状況に気が気でなかったのだから。
私はODした上で風呂場で手首や腕や首を剃刀で切り、朦朧とする意識の中で布団に横たわり、意識をなくした。
数時間後、家族に発見され、救急搬送された。
傷はそれほど深くなく、薬も致死量ではなかったので、そのまま発見が遅れていても実際に死に至っていたかどうかは分からない。
結局私は、SOSが誰にも届かなかった。
けれど誰しも、SOSを発している人間が実際に身近にいるはずだ。
確かに軽い意味合いの「死にたい」もたくさんあると思う。
その中にある心からのSOSを、どうか見逃さないで、見落とさないでほしい。