「死にたい」と言ってるうちは大丈夫?
彼女のTwitterには何度も何度も「死にたい」という言葉が出てくる。
なのに何故、誰も彼女を救うことができなかったのだろうか。
実際、TwitterなどのSNSには「死にたい」という言葉が溢れている。
精神を病んでいる者の口癖のような「死にたい」、自分のキャパを超える出来事が起こったということを表現する「死にたい」*1、そういう者に混じって、本当に誰かに救いを求める「死にたい」も紛れ込んでいる。
「死」という言葉があまりに軽く使われていることが、原因のひとつなのではないだろうか。
そしてもう一つ。
「死にたい」と言っているうちは本当に自殺しない、と思っている人が、何故か多い気がする。
確かに絶対に自殺を完遂したい者は、誰にも内緒で命を絶つだろう。
しかし、最後の最後まで「死ぬしかない、だけど誰かに助けてほしい」とSOSを送り続けている者もいるのだ。
今回の女性も、私は後者だったと考える。
実際、私も「死にたい」とSOSを発した後、自殺未遂を起こしたことがある。*2
それはちょうど、東日本大震災が起きた直後のことだった。
私は全く被害のない地域に住んでいたし親戚も被災地にはいなかったため、逆に「こんなに大変な目に合っている人達がいるのに、自分には何もできない」と無力感に襲われた。
また、3月11日直後にもう何年も私のXデーともいうべきトラウマになった出来事の起こった日が控えており、毎年その日が近付くと精神的に不安定になっていた。
更に、そのXデーの前後に私はライヴに参加する予定だったが、震災のため延期となってしまった。
私としてはXデーに近い日付に楽しみを入れることで「生きる希望」を作ろうとしたのだが、それがなくなってしまった。
希望が奪われたことで私は、「もう生きなくていい」と運命が自分に告げているのだと感じた。
Xデーの当日、私はSNSに「死にたい」、「さようなら」、「私は消えます」などとこの世を去る挨拶のようなことを書き込んだ。
反応は全くなかった。
当たり前だ。
皆、私のことよりも、東日本大震災の被災地の状況に気が気でなかったのだから。
私はODした上で風呂場で手首や腕や首を剃刀で切り、朦朧とする意識の中で布団に横たわり、意識をなくした。
数時間後、家族に発見され、救急搬送された。
傷はそれほど深くなく、薬も致死量ではなかったので、そのまま発見が遅れていても実際に死に至っていたかどうかは分からない。
結局私は、SOSが誰にも届かなかった。
けれど誰しも、SOSを発している人間が実際に身近にいるはずだ。
確かに軽い意味合いの「死にたい」もたくさんあると思う。
その中にある心からのSOSを、どうか見逃さないで、見落とさないでほしい。