私が双極性障害と診断されるまで4
この続きである。
※時系列に少しミスがあったので訂正しました。
前回の話の通り、私は母と暮らすことになった。
家事は全て母がしてくれ、私は寝て起きてご飯を食べて、時折PCで色々遊ぶ。
とにかく「親のぬくもり」を傍に置いて安心できる環境を作ることが必要だと言われた。
その頃、カウンセリングのY先生の紹介で病院を代わり、少し離れたところにある心療内科のクリニックに通っていた。
電車で一時間ほどかかるため行くだけで疲れ、薬が切れても病院に行けないということもあった。
そうなると私は離脱症状に苦しみながら、病院に行くことになる。
またこの年は、自傷行為との戦いの年でもあった。
母は家中の刃物という刃物を全て隠した。
私はそれを何とか探し出し、風呂場で一人きりになった隙に自分を傷付けた。
翌朝傷を見付けた母が私を叱りながら手当てをし、改めて刃物を隠す。
しかし私もいざという時のために刃物を隠しておき、その隠し場所は絶対に教えなかった。
傷が塞がらずに病院で縫合処置を受けたことも一度や二度ではない。
最終的には左腕の皮膚がボロボロになり、このままではもう手首の皮膚がくっ付かなくなる、皮膚が薄すぎて次はもう縫うことができない、とまで言われた。
私も自傷行為が良いことだとは思っていなかったが、切らずにはいられなかった。
いけないと思いながらも、やめることができなかった。
休学期間が限界を迎えたため、翌年は復学することとなる。
母は実家に帰り、再び前の同居人との生活が始まった。
カウンセリングのせいもあってか意外と休むことも少なく大学に通うことができ、一年を通してある程度きちんと出席して単位が取れた唯一の年となった。
もちろん、学校に行けない時もあった。
自傷も続いていた。
うつが酷い時もあった。
はけ口は相変わらずmixiだった。
しかし、mixiはmixiで会う人、合わない人も出てきて、人間関係が徐々にめんどくさくなっていた。
それでもまだ、ブログに戻る気にはなれなかった。
その翌年、大学に入学して7年目のことである。
前期は休みがちながらなんとか通学していたが、徐々に休みが多くなっていた。
結果的に前期試験の当日学校に行くことができず、それがひとつの選択をするきっかけとなった。
退学である。
このままでは卒業に必要な単位を取得することができず、後期も通学できそうにないという判断からだった。
私が一番しがみ付いていたのは「大学卒業」だったので、仕方ない。
すぐに実家に帰ることもできたが、私が都会での生活に名残があったこともあり、引っ越しは春となった。
それまではライヴハウスに通おう、同人誌即売会にも参加しよう、そう決めていた。
結局は予定を半月ほど前倒しした翌年の2月の半ば、私は実家に帰った。
3月になって、それまで通っていた心療内科クリニックの紹介状を持って、市内の精神科(田舎の山奥にある病院である)に行った。
そこで私は今の主治医と初めて会うのだが、紹介状を目にして私の顔を見るなり、主治医はこう言った。
「あなたは躁鬱病なので」
寝耳に水だった。
クリニックの主治医には、うつ状態としか言われたことがなかった。
けれど後になって調べてみると、処方されていた薬には双極性障害の治療に使われる炭酸リチウムも含まれていたのだ。
結果として、私は双極性障害の患者として薬が処方されるようになった。
双極性障害として障害者手帳もいただいたし、双極性障害として障害年金も受給している。
診断名が「うつ状態」から「双極性障害」に変わるまで、実に7年かかったのだった。
しかし、主治医のこの見立ては最終的な結論ではなかったのだが、そのことに関しては改めて書きたいと思う。
結論から言うと、「私は厳密には双極性障害ではないかもしれない」ということである。
夢から覚めない夢
夢から覚めない夢を見たことがあるだろうか?
もしくは、夢の中で夢を見たことがあるだろうか?
夢から目覚めた、と思ったらいまだに夢の中だったという経験はないだろうか?
夢占いでは、「夢を見る夢」というものは「非常に疲れている」もしくは「ストレスが溜まっている」状態を表すらしい。
私はこのような夢をしばしば見る。
また、金縛り状態に遭うこともよくある。
ちなみに金縛りに遭うのも、心身が疲れている時やぐっすり眠れていない時によく起きることだ。
要するに、夢から覚めない夢は私のうつ症状からくる、一種の睡眠障害と思われる。
ちなみに私は相当な量の眠剤を服用しなければ眠りに就けなかったり、眠りが浅く短時間で目が覚めてしまったり、いつもの布団以外の場所ではろくに眠れないなどの不眠症状がある。
不眠が続くと、反動で過眠状態になることもある。
夢から覚めない夢、というのはどのようなものなのか。
実際に経験したことがなければ、その苦しさは分かりづらいかもしれない。
昨日、私が見た夢を元に体験談を書いてみたいと思う。
私が寝ていたのは現在の寝室ではなく、幼少期に眠っていた部屋のようだった。
隣の部屋には家族がいるような気配があった。
私は目が覚めるが、身体が動かせない。
「せーの!」と気合を入れて起き上がり、家族のいる隣室に歩くが、気付くと意識は布団の中に戻っていた。
何度か同じことを繰り返す。
しかし、何度繰り返しても私の身体は布団の中から動かない。
諦めて、私はもう一度眠ることにした。
次に目が覚めたのは、尿意を感じたからだ。
私は身体を起こし、トイレに向かう。
衣服を脱いで便座に座ったところで、私はふと思う。
「私は本当に目覚めているのだろうか? これは現実だろうか?」と。
私は便器や壁を叩き、感触がリアルであることを確認する。
自分の頬ををつねったり叩いたりして、自分が起きていることを確認する。
しかし次の瞬間、意識は布団の中に戻る。
やはり、全ては夢の中の出来事だった。
隣室にはやはり家族がいるようで、私は何とか気付いてもらおうと大声で叫ぶ。
手足をバタバタさせたり、枕元のものを投げたりして、大きな音を出す。
しかし誰も気付かない。
やはり全て、夢の中の出来事だからだ。
そんなことが何度か続き、私はぐったりした状態で目覚めた。
夢の中で私がもがいていた部屋も布団も、全て現実のものとは違っていたし、家族を呼ぶための行為も全て夢の中での出来事だった。
尿意だけは本当だったが、漏らしそうなほど限界ギリギリまで我慢した状態ではなかった。
こんなことが数ヶ月に一度、多いと月に何度か、あるいは週に何度か起きる。
対策としてはやはり、思い切ってもう一度眠ってしまうのが一番のようだ。
しかし何故か、夢の中の私はそれを学習せず、夢の中と分かっていながらなんとか起きようともがき続けるのだ……。
1ヶ月半ぶりに職場に行った結果
心身の調子が悪くなってついに外に出られなくなった結果、私は9月の半ば辺りから職場に長期休暇をいただいていた。
最初は2週間程度のつもりだったのだが、体調が全く回復せず、ずるずると1ヶ月半も経ってしまった。
食欲が全くなく、この1ヶ月半で体重は5kg落ちていた。
外出もほとんどできず、短時間でも歩くと疲れるようになっていた。
今日も本来は、今後について、あとどれくらい休暇が必要か、職場復帰の目途はどれくらいか、というようなことを話し合う予定だった。
しかし、予定の時間の2時間ほど前に経営者から電話があった。
「今日、3時間くらい仕事に出られない?」
は?
……って、思いますよね。
よくよく聞くと、バイトの子が二人も風邪でダウンしたとのこと。
短時間でもいいから手伝ってくれる人手を探していたところ、私がちょうど職場に行く約束をしていたのでそのまま仕事に出てほしい、ということだった。
超零細企業なので、二人も欠員が出てしまうと職場は回らなくなってしまう。
他のスタッフへのしわ寄せも私は痛いほど分かっていたので、とりあえず了承することにした。
経営者は、今日はあまり忙しくないと言っていたが、実際は結構忙しく、3時間経つころには疲労困憊だった。
最終的には、帰宅直前に貧血を起こしてしまい、数分間蹲って動けなくなった。
……でしょうね。
体調が万全じゃないのに無理して復帰を焦るものではない。
とはいえ、結局経営者に押し切られる形で今後は週1からシフトを入れられ徐々に復帰するように予定されたのだった。
障害者雇用外で働く
今回はこちらの記事を受けて、障害者雇用ではなく健常者と同じ条件で働いている精神障害者としての立場を書きたいと思う。
まず働き始めた時の私のスペックとしては、双極性障害、障害者手帳2級、障害年金受給、大学自主退学で最終学歴は高卒、29歳独身、結婚妊娠の予定なし。
田舎なので高卒はザラだし、結婚妊娠の予定なしは長期で働く上では強みだ。
雇用されるまで
1.登録~先方からの連絡
職場は求人サイトで探した。
最初から働きたい業種も、具体的な職場の希望もあったので、求人サイトで求人しているのを確認してそこから登録した。
田舎の個人経営の企業である。
障害者雇用枠などないので、端から健常者として雇用されるつもりで申し込んだ。
翌日、担当者から連絡があった。
次の日に面接に来てほしいとのことだった。
持参する物は簡単な履歴書のみ、服装の指定はなかった。
2.履歴書と服装
履歴書には、ある程度本当のことを書いた。
というか、嘘は一言も書いていない。
大学の退学理由も「一身上の理由」で、空白期間も持病の療養期間ということにした。
私は就活を体験したことがないため、リクルートスーツを持っていない。
大学の入学式で着用したスーツのみであるが、少々古くサイズも合わない。
だからといって、さすがにニート丸出しのファッションセンスのかけらもない服装もアウトだろう。
結局、働きたい職場の雰囲気も考え、少々お洒落でふんわりしたいわゆる森ガールファッションをもう少し大人っぽくしたような服装で行くことにした。
3.面接
面接は電話で対応した担当の者とマンツーマンだった。
その際、担当の者が実は経営者本人だと初めて知った。
その職場は慢性的な人手不足だったようで、面接は形式的なものだということはすぐに分かった。
何度かバイトの面接を受けたこともあるが、この職場は動機や意気込みといったものよりも、雇用された後の条件面に関する話に多くの時間を割いた。
こちらが出した条件としては、
くらいである。
また、持病があるので疲れやすかったり体調を崩したりすることがあるかもしれない、と最初から予防線を張っておいた。
4.雇用決定
結果的に私は面接に合格ということで、登録した日から数えると約2週間で働き始めた。
雇用形態はパートタイマーである。
その職場では正社員と学生バイト以外は全てパートという扱いだった。
働き始めて
体調面
その当時はある程度精神的には落ち着いていたが、やはり朝起きられないことや、家からなかなか出られないことがあった。
何度か遅刻を繰り返してしまい、社会人として、ギリギリの出勤や遅刻はよろしくない、と早速厳しく叱られた。
肉体的にもなかなか厳しい職種で、ずっとほぼ寝たきりだった私の肘や膝など身体のあちこちが悲鳴を上げた。
しかし、数ヶ月が過ぎる頃には長時間立ちっぱなしだったりずっと歩き回ることが、苦ではなくなるくらいに脚力が付いていた。
困ったこと
社会人経験が短期バイトくらいしかないため、最初は挨拶のタイミングやなんと声をかけていいかもよく分からず、何度か注意された。
人見知りではないが、初めての場所で知らないスタッフと共に働くことに対する緊張もあったと思う。
緊張から、最初の頃は作業自体に落ち着きがないということもあった。
また、他人と会話をすることがほとんどない生活を続けていたため、他のスタッフの指示に対して返事をする時など、思わずどもってしまったり、咄嗟になんと返せばいいか分からず言葉が出ないことがあった。
独り言も多かった気がする。
障害者雇用外で働くメリット・デメリット
このような経緯で、私は今の職場でパートとして働いて数年が経った。
前出の記事に書かれている障害者雇用で働くメリット・デメリットと比較しながら、私の体験上のメリット・デメリットを考えてみたい。
障害者雇用のメリット
休みや早退に寛容
私の職場はシフト制なので、ある程度は寛容である。
病院の予約が入った日はシフトをずらすなどしてもらえる。
しかし急な休みは人手不足に繋がるため、当日急に休むことは極力避けなければならない。
繁忙期に関しては、基本的に休みなどの希望は通らない。
責任感のある仕事はやらされない
新人の教育や納品の領収書へのサインはパートやバイトでも任されるが、具体的な商品案や改善案などは出すことができない。
責任感のある仕事は、基本的に正社員だけである。
多少のミスは許される
許される場合もあるが、ミスの大小にもよる。
また、相手のある職種であるので、いくら小さなミスでも相手方が気分を害したり怒ってしまったりした場合は、上司に厳しく叱られることになる。
人事部の人が気にかけてくれる
人事部がないので割愛。
面接のとき職歴の空白は「治療に専念していました」で通じる
私には精神障害の他にも持病があるため、この言い訳を利用することができた。
この辺りは雇用主によると思う。
障害者雇用のデメリット
賃金が安い
私の職場は業界として賃金が安いので、障害者雇用云々は関係なく安い。
最初は最低賃金ギリギリだった。
雇用形態が安定していない(ほとんどが契約社員)
私もパートという形で働いているが、正社員が何人か退職した時他のスタッフから「正社員になれば」と勧められたこともある。
実際、シフト制ではあるが実質的な労働日数はほぼ正社員と同じくらいという時期もあった。
しかし結局、体力も精神の不安定さも正社員の激務に耐えられるとは思えないので、賃金は安いがこのままでいいと思っている。
昇給がないところが多い
雇用されて1年経った頃、昇給した。
時給20円アップである。
それ以降は体調を崩し休職した時期もあるため、ずっと現状維持のままだ。
人並みに働けていないことに劣等感が湧く
これは逆に言うと、障害者雇用外で働く上での一番のメリットかもしれない。
実力重視なので、健康な他のパートと分け隔てなく仕事を任せられる。
ひとつ仕事を覚えれば、また次の仕事を教えられる、という感じだ。
職場で頼りにされている、社会の役に立っている、と実感できる部分である。
やりがいがない
これも職場によるのではないかと思う。
現代の日本社会で、やりがいを感じられない職場など山ほどあると言っても過言ではない。
私の場合は、最初は働いた対価を得られることでやりがいを感じていた。
しかし、次第に自分の仕事に対して受け手の反応を見ることができないため、モチベーションが上がらなくなってしまった。
元々、黙々と一つの単純な作業を繰り返すような仕事に向いていないのだ。
結論
雇用主や職種によるのではないだろうか。
障害者雇用で働くことのメリット・デメリットがそのまま障害者雇用外で働くことのデメリット・メリットになるわけではないと思う。
私の場合は精神的な不調にもある程度理解のある経営者に恵まれたため、自律神経の乱れと軽いうつ症状、ということで二度ほど長期休暇をいただいている。
体調が優れず、当日休んだり遅刻したりすることにも、繁忙期を除けば寛容だ。
もっとも、症状が悪化したのは職場のストレスが原因のひとつでもあるのだが。
今の時代、転職も恥ではないと思う。
障害者雇用を利用したり利用しなかったり、色々試してみて、自分に合った働き方や職場を見付けることが大事なのかもしれない。
私が双極性障害と診断されるまで3
今までの記事はこちら。
前回は、ネット上での晒し行為により心が折れ、Y先生のカウンセリングを受け始めるところまで話した。
この時点で「うつ」と診断されてから約2年半が経っている。
4度目の冬がやって来ようというタイミングだった。
秋が終わり、冬が始まる頃、抗うつ剤とカウンセリングによる本格的な治療が始まった。
私はものすごく精神的に不安定だった。
ちょうどその頃に参戦したライヴでは、最初から最後まで終始泣きっぱなしという情緒不安定さだった。
しかし、冬が深まるにつれ抗うつ剤や向精神薬の効き目が表れ始め、私は感情をなくした。
完全になくなったわけではないが、情緒の起伏が極めて平坦になった。
簡単に説明すれば、あまり笑わなくなった。
TVを見たりして、時折くすっと笑う程度である。
そして、自傷行為がどんどんとエスカレートした。
結果として、翌年はまた休学することとなった。
1回生→1年休学→2回生→1年休学、なので、休学が明ける頃は私が1回生の頃に同級生だった友人たちが、卒業した後ということになる。
焦りも悔しさもあった。
しかし、この状況ではそうせざるを得なかった。
時を前後して、私は派遣のバイトに登録をした。
学校に通えなくとも、趣味にはお金がかかる。
ならば、日払いのバイトでもしてみよう、という安易な動機だった。
大体1日か2日、あるいは研修の日も入れて3日間とか、そういう短期のバイトだけを受けた。
内容的には倉庫業務(検品、値付け、箱詰めなど)や、工場での手伝い、アンケート調査にビラ配り、交通量調査もやった。
そんなに頻繁に仕事の依頼が来るわけではないので、大体月1万~2万、もしくは全く仕事の来ない月もあった。
一般的な接客バイトなどとはかけ離れているが、様々な業種の色々な面を見て知ることができ、いい社会経験になったと今では思う。
オチとしては、登録していた派遣会社が問題を起こして廃業した某人材派遣会社の子会社だったため、時を同じくして私の登録も終了したということだろうか。
さて、派遣バイトと同人誌製作、ライヴ参戦に明け暮れる一年が始まった。
とはいえ、比重としては ライヴ>>>>>同人誌>>>>>>>>>>バイト くらいである。
おそらく、私が人生で一番ライヴに参戦した一年になったと思う。
月に2度はライヴハウスに通っていた記憶がある。
その他、ラジオの公開放送、インストアなどのフリーライヴにも頻繁に出かけた。
好きなことはできるのに、何で学校に行けないんだろうと自分を責めたりもした。
かろうじて食事作り等の家事は出来ていたが、部屋の片付けはほとんど出来ず、まるでゴミ屋敷のようだった。
自室だけは同居人とお互いに不干渉だったので、ひどくなっていくばかりであった。
その年の初夏、ネット上でとあるトラブルに見舞われ、うつ状態と疑心暗鬼が悪化し、学校にぱったりと通えなくなるということがあった。
ネット上で知り合った友人の中には私の見方をしてくれる者もいたが、匿名で私を攻撃してくる者がいるという恐怖に耐えきれなかった。
仕方なく一旦ブログの更新は停止し、当時ブームとなっていたmixiで限定的に日記を公開するようになった。
結局学校にはほとんど通えなくなったため、翌年は休学することとなった。
相変わらず自分の興味のあることしかできない状態ではあったが、大学のサークルに顔を出すなど、学校への恐怖感、拒絶感などはなくなっていた。
そしてその年の冬、私はとある事件を起こす。
自殺未遂だ。
きっかけはよく覚えていない。
とにかく精神的な落ち込みがひどく、更に季節的なものもあってか過去に好きだった友人と別れた時のことがフラッシュバックし、心が堪え切れられなくなった。
気が付いた時、私は実家にいた。
ぼんやりと、病院のベッドにいた記憶、父に支えられてふらふらしながら駅を歩く記憶はあった。
詳しく聞くと、同居人が帰宅した時、私は眠剤を大量に飲み、腕を血だらけにしていたらしい。
同居人は慌てて両親に連絡を取り、救急車を呼んだ。
もちろん緊急入院である。
幸いなことに当時住んでいた家からほど近い場所に救急病院があり、同居人は後から着替えなど必要なものを取りに帰ってくれた。
翌日、父が私を実家に連れて帰るために病院にやって来た。
大量に飲んだ薬のせいで意識は朦朧としていたが、傷も縫合し終わり、病院としては特に入院させる必要がないので実家で両親の目の届くところで静養するようにと言われた。
私はこの事件を、「強制送還事件」と呼んでいる。
それから約2ヶ月ほど、私は実家で過ごした。
春からは、もう一年休学することが決まった。
しかしバイトや同人誌即売会やライヴなど色々とあったのでずっと実家にいるわけにはいかず、Y先生にもすぐに会える方がいいとのことで、母と一緒に暮らすことを条件に大学の近くの家に戻る。
同居人と入れ替わりに、母と一緒に住むことになる。
大学に入学して6年目、うつと診断されてから5年目の春のことだった。