初めて女の子に恋をした話
私は「女性」として生を受けた。
しかし、幼い頃から性別の壁がとてつもなく苦痛で、何とかそれをぶち壊したいと思っていた。
それなのに、私が入学したのは中高一貫の女子校だった。
地元では進学校として知られていたので、勉強ができれば女子校だろうが共学だろうが構わないと思っていた。
私は「女性」として育てられた。
小学生の頃は「女子」として扱われたし、「女子」のグループと一緒に遊んだり下校したりすることが多かった。
やがておませな子たちは「好きな人」の話をしたがるようになり、「好きな人教えて。誰にも内緒にするから」と幾度も聞かれた。
私は「女性」は「男性」を好きになるのが自然なのだと思い、ほんの少し「かっこいいな」、「優しいな」、「一緒にいて楽しいな」と思う男子のことを「好きな人」として話した。
今思うとそれは確かに「好きな人」だったのだろうが、本当に「恋」だったのだろうか。
小学生の幼い恋、と思えばそれはそれで間違いではないような気もするが。
私は「女性」として女子校に進学した。
そこで出会ったのが、私が後に好きになることになる女の子、仮に「Aちゃん」と呼ぶことにしよう。
Aちゃんとは同じクラスで、入学直後のオリエンテーションでも同じグループだった。
それぞれ違う小学校から進学していたため、そのグループがそのままクラスでの仲良しグループになった。
中2、中3はAちゃんとは別のクラスだった。
始業前、休憩時間、終業後がAちゃんと過ごせる時間だった。
基本的には中学入学直後の仲良しグループの5人で過ごすことが多かったが、次第に私はAちゃんと過ごすことが多くなった。
単純に、共通の話題が増えたためだ。
グループ全員がいわゆるヲタクで好きなジャンルも少しずつ被っていたが、音楽が好きで主に小説を書くのは私とAちゃんだった。
Aちゃんはとても頭がいい子だった。
もちろん進学校なので飛び抜けて成績がいいわけではなかったが、勉強以外の雑学や時事問題といった学校では習わないことも詳しかった。
私も雑学や時事問題には興味があったので、非常に話が合った。
可愛いかどうかといえば……まあ、普通だと思う。
しかし、身長がすらりと高く、スタイルがよかった。
とにかく、一緒にいる時間がとても楽しい子だった。
いつしか私は少しでも早くAちゃんに会いたくて、学校に少し早く登校するようになった。
毎晩、Aちゃんに手紙を書いた。*1
授業中にも手紙を書いた。*2
連休ともなれば、家の電話で長電話をして家族に怒られた。*3
少し依存しすぎているような気はしたが、それでも行き過ぎた友情だと思っていた。
私が、恋している自覚をしたのはおそらく、高校1年生になった初日だった。
私の学校では中学生と高校生では制服のデザインが少し違い、初めて高校生の制服を着たAちゃんを見て、ときめいてしまったのだ。
大人っぽくてかっこよくて、きゅんとしてしまった。
その後、色々とあって徐々に擦れ違い、私たちは縁を切ることになる。
当時はAちゃんのことを恨みもした。
未練もあった。
けれど今は、彼女が元気で幸せでいればそれでいいかな、と思っている。
私が双極性障害と診断されるまで3
今までの記事はこちら。
前回は、ネット上での晒し行為により心が折れ、Y先生のカウンセリングを受け始めるところまで話した。
この時点で「うつ」と診断されてから約2年半が経っている。
4度目の冬がやって来ようというタイミングだった。
秋が終わり、冬が始まる頃、抗うつ剤とカウンセリングによる本格的な治療が始まった。
私はものすごく精神的に不安定だった。
ちょうどその頃に参戦したライヴでは、最初から最後まで終始泣きっぱなしという情緒不安定さだった。
しかし、冬が深まるにつれ抗うつ剤や向精神薬の効き目が表れ始め、私は感情をなくした。
完全になくなったわけではないが、情緒の起伏が極めて平坦になった。
簡単に説明すれば、あまり笑わなくなった。
TVを見たりして、時折くすっと笑う程度である。
そして、自傷行為がどんどんとエスカレートした。
結果として、翌年はまた休学することとなった。
1回生→1年休学→2回生→1年休学、なので、休学が明ける頃は私が1回生の頃に同級生だった友人たちが、卒業した後ということになる。
焦りも悔しさもあった。
しかし、この状況ではそうせざるを得なかった。
時を前後して、私は派遣のバイトに登録をした。
学校に通えなくとも、趣味にはお金がかかる。
ならば、日払いのバイトでもしてみよう、という安易な動機だった。
大体1日か2日、あるいは研修の日も入れて3日間とか、そういう短期のバイトだけを受けた。
内容的には倉庫業務(検品、値付け、箱詰めなど)や、工場での手伝い、アンケート調査にビラ配り、交通量調査もやった。
そんなに頻繁に仕事の依頼が来るわけではないので、大体月1万~2万、もしくは全く仕事の来ない月もあった。
一般的な接客バイトなどとはかけ離れているが、様々な業種の色々な面を見て知ることができ、いい社会経験になったと今では思う。
オチとしては、登録していた派遣会社が問題を起こして廃業した某人材派遣会社の子会社だったため、時を同じくして私の登録も終了したということだろうか。
さて、派遣バイトと同人誌製作、ライヴ参戦に明け暮れる一年が始まった。
とはいえ、比重としては ライヴ>>>>>同人誌>>>>>>>>>>バイト くらいである。
おそらく、私が人生で一番ライヴに参戦した一年になったと思う。
月に2度はライヴハウスに通っていた記憶がある。
その他、ラジオの公開放送、インストアなどのフリーライヴにも頻繁に出かけた。
好きなことはできるのに、何で学校に行けないんだろうと自分を責めたりもした。
かろうじて食事作り等の家事は出来ていたが、部屋の片付けはほとんど出来ず、まるでゴミ屋敷のようだった。
自室だけは同居人とお互いに不干渉だったので、ひどくなっていくばかりであった。
その年の初夏、ネット上でとあるトラブルに見舞われ、うつ状態と疑心暗鬼が悪化し、学校にぱったりと通えなくなるということがあった。
ネット上で知り合った友人の中には私の見方をしてくれる者もいたが、匿名で私を攻撃してくる者がいるという恐怖に耐えきれなかった。
仕方なく一旦ブログの更新は停止し、当時ブームとなっていたmixiで限定的に日記を公開するようになった。
結局学校にはほとんど通えなくなったため、翌年は休学することとなった。
相変わらず自分の興味のあることしかできない状態ではあったが、大学のサークルに顔を出すなど、学校への恐怖感、拒絶感などはなくなっていた。
そしてその年の冬、私はとある事件を起こす。
自殺未遂だ。
きっかけはよく覚えていない。
とにかく精神的な落ち込みがひどく、更に季節的なものもあってか過去に好きだった友人と別れた時のことがフラッシュバックし、心が堪え切れられなくなった。
気が付いた時、私は実家にいた。
ぼんやりと、病院のベッドにいた記憶、父に支えられてふらふらしながら駅を歩く記憶はあった。
詳しく聞くと、同居人が帰宅した時、私は眠剤を大量に飲み、腕を血だらけにしていたらしい。
同居人は慌てて両親に連絡を取り、救急車を呼んだ。
もちろん緊急入院である。
幸いなことに当時住んでいた家からほど近い場所に救急病院があり、同居人は後から着替えなど必要なものを取りに帰ってくれた。
翌日、父が私を実家に連れて帰るために病院にやって来た。
大量に飲んだ薬のせいで意識は朦朧としていたが、傷も縫合し終わり、病院としては特に入院させる必要がないので実家で両親の目の届くところで静養するようにと言われた。
私はこの事件を、「強制送還事件」と呼んでいる。
それから約2ヶ月ほど、私は実家で過ごした。
春からは、もう一年休学することが決まった。
しかしバイトや同人誌即売会やライヴなど色々とあったのでずっと実家にいるわけにはいかず、Y先生にもすぐに会える方がいいとのことで、母と一緒に暮らすことを条件に大学の近くの家に戻る。
同居人と入れ替わりに、母と一緒に住むことになる。
大学に入学して6年目、うつと診断されてから5年目の春のことだった。
生きるための自傷行為とは
この記事の中で、私が自傷行為をしていた頃のことを少し書いた。
今回はその頃の私の心理状態、自分を傷付けた理由、今になって思うことなどを書いてみたいと思う。
※この記事には生々しい自傷行為に関する表現があります。精神的に不安定な方、影響を受けやすい方は閲覧を控えるなどご注意ください。
まず、「自傷行為」と死ぬことを目的に自分を傷付ける「自殺未遂」は別物としてこの記事では扱う。
私が自傷行為を始めたのは、うつと診断されて3年ほど経った頃のことだった。
しかし実は、中学生の頃も自傷行為っぽいことはしていた。
剃刀やカッターなどで、手首や胸元を傷付けるのだ。
服で隠れる場所なのがミソで、つまり傷に気付くのは家族くらいしかいない。
当時の私は、家族の中に居場所がなく、寂しい思いをしていた。
なので心配してもらいたくて、気にかけてもらいたくて、自分を傷付けていた。
よくあるかまってちゃんのリスカだ。
けれど、うつと診断されてからのそれは違った。
きっかけは、当時ブログなどを通じて知り合った友人の何人かが精神を病んでいて、自傷行為をブログで報告しているのを見たことだった。
精神的に不安定な時、落ち込む出来事があった時、自傷行為をすることで落ち着いたと書かれていた。
そんなに効果のあるものなら自分もしてみたい、そう思った。
まるで違法薬物に手を出すのと同じような構図だが、実際に私はどんどん自傷行為がエスカレートしたし、行為自体に依存するようにもなった。
中学生の頃と明らかに違ったのは、服を着ていても目に見える手の甲に近い場所にも傷跡を作っていたことだろう。
当時の私には同居人はいたが両親とは離れて暮らしていたため、家族だけに見える場所に傷を作る必要はなかった。
そもそも、誰かの気を引くことが目的でもなかった。
自分を傷付けること、その行為自体に安心感をおぼえていた。
当時の私は、自己嫌悪、加害妄想、他人を傷付けることや嫌われることへの恐怖がとても大きかった。
自己評価がとてつもなく低く、自分を罰せなければならないと思っていた。
その自分を罰する行為のひとつが、自傷だった。
痛みが、流れ落ちる血液が、自分の罪を軽くしていくような気がしていた。
行為がエスカレートした私は、毎晩のように風呂場で自傷を繰り返した。
洗面器にお湯をためて、そこに左腕を突っ込んで、お湯が真っ赤になるまで切った。
何度か傷が塞がらなくなり、外科で縫合してもらったこともある。
最終的には切りすぎて皮膚が非常に薄くなってしまったため、次はもうこれ以上縫えない、傷が塞げないとまで言われた。
結果的に私の左腕は肘の近くまでびっしりと傷跡だらけで、ケロイド状になっている。
傷跡が赤く引き攣れていた頃はあまりに見た目が醜いので、半袖の服など着ることができなかった。
現在は傷の色も肌色になり、近くで見なければあまり気にならないため、半袖の服も着るし、何か聞かれた時は怪我や火傷の痕だと答えている。*1
最後に自傷行為をしたのは、この記事の時だと思う。
しかし、この時は明確に自殺をするつもりで傷付けたので、正しくは「自傷」ではなく「自殺未遂」である。
となると、私はもう少し早い段階で自傷癖から抜け出している。
理由ははっきりとは覚えていないが、「もうやめよう」と強く思ったことは確かだ。
「もうやめよう」と思うまでには時間がかかった。
何故ならそれまで、私は医者や家族に止められても、「私は生きるために切っているのだ!」と強く主張していたからだ。
実際、自分を傷付けることで自分を罰し、そして心が軽くなっていた。
自傷行為をしていなかったらどうなっていたかは分からないが、もしかすると心が壊れていたかもしれないし、もしかすると傷付ける対象が自分以外に向かっていたかもしれない。
なので、私は今自傷行為をやめられない人に対して、非難はしない。
否定もしない。
けれど、肯定もしない。
できれば早く、「やめよう」と思ってほしい。
それを行動に移してほしい。
きっと、自傷行為をした後で後悔の念に苛まれる人も少なくないと思う。
私もそうだった。
「やめよう」と思っても、本当にやめるまでには時間がかかった。
とにかく強い意志が必要なのだと思う。
禁煙やアルコール依存症と同じようなものではないだろうか。
そしてもしそうだとしたら、周りの人間は責めるのではなく、理解してあげてほしい。
自殺未遂は別として、「死にたい」ではなく「生きたい」と思って自分を傷付けている人は多いと思う。
そんなことして自分を責めなくても許されていることを、伝えてほしい。
そして自傷行為をやめようと頑張っているなら、今日も我慢できてよく頑張った、と褒めてあげてほしい。
以上はあくまで私の体験をもとにした個人の意見である。
全ての自傷行為をする者に当てはまるとは限らない。
ただ、私にとっての自傷行為は「生きるための躊躇い傷」であったと、今振り返ってみて思う。
田舎の障害者支援施設
以前書いたこの記事と、少し関連する内容になる。
私は田舎に住んでいるため、障害者と交流する場というものが少ない。
各市などの保健課に相談すれば、障害者支援の施設を紹介してもらえる。
私の住んでいる市には、いくつかの障害者支援施設がある。
知的、身体、精神それぞれの作業所や、生活支援などの施設だ。
私は精神障害者手帳を持っているため、精神障害者ということになるが、作業所で職業訓練をすることなくバイトを始めた。
体験として何度か足を運んだこともあるが、他人とのコミュニケーションが極端にできないなど、とにかく私よりも社会への適応が難しそうな利用者が多く、私の居場所ではないように感じた。
とはいえ、私もバイトを始めるまでは数年間、寝たきりの引きこもりニート状態だったのではあるが。
また、三障害の当事者や家族などが交流をすることができる施設にも、足を運んだことがある。
活動の内容としては、お茶やお菓子をいただきながら世間話をする他、料理、工作、軽スポーツ、ゲーム、DVD鑑賞などがあった。
いずれにせよ、知的や身体の障害者が多いので、彼らが参加しやすいルールや難易度となっている。
つまり、私にとっては「楽にできすぎてしまう」のだ。
それが特に顕著だったのが、カードゲームをした時だった。
まずはカルタ取り。
人数がそこそこいたため、一組のカルタではすぐに終わってしまうし面白くないとのことで、支援者の方が三種類のカルタを混ぜてのプレーを提案された。
最初は私も枚数の多さに戸惑い、皆と同じペースでカードを取っていた。
しかし、枚数が半分くらいになった頃だろうか。
三種類のカルタはそれぞれ内容が違うため*1、読み札の内容からすぐにどの取り札かが分かってしまう。
知的障害者が大半を占める中、私は順調に枚数を増やした。
案の定、私は他の障害者たちにダブル、トリプルスコアを付けてぶっちぎり優勝してしまった。
そして、トランプだ。
ババ抜きや神経衰弱など、運も大きく絡むものはそれほど差がつかない。
問題は、若干の戦略が絡んでくる七並べのようなものである。
私は「6」や「8」で止めるという戦略を誰しも知っているものと思い、使ってしまった。
しかし結果的にその戦略を知っている知的障害者も支援者もおらず、私の一人勝ちとなってしまった。
身体障害者も支援者と二人一組で参加していたが、誰も知らなかったようだった。
つまり、精神障害者というのは三障害の中でも孤立しやすいのだと思う。
特に、見た目では健常者と変わらない双極性障害や重度のうつという場合などはそうだろう。
精神障害者だけのコミュニティがあれば、多少は違うのだと思う。
実際、全国のレベルで見てみればノーチラス会など、双極性障害の当事者・家族会は存在する。
しかし田舎で精神障害者と知り合うことは、非常に難しい。
まず、引きこもっている者が多いため、外に出ない。
他人の目を気にして障害者であることを隠している。
精神的に他人と関わりたくない気分である。
その他色々な理由があるだろう。
都会であれば、絶対数が多いので障害者同士コミュニケーションを取ろうとする者と出会う機会は増えると思う。
SNSで知り合うこともできる。
田舎では絶対数が少ないことに加え、SNSを利用している者も少ない。
何故なら、平均年齢がものすごく高いのだ。
多くがガラケーユーザーなのだ。
結局、精神障害者と出会う場は、精神障害者の作業所か、精神病院しかない。
結果的に、私は交流会に行かなくなった。
バイトを始めたことで、時間的に難しくなったこともあるが、行ったことで何も実になるものがないことに気付いたことも大きい。
体験談を交換したくとも、相手がいない。
困っていることを相談したくとも、相手がいない。
とにかく、同じ立場、似た立場の存在が見付からないのだ。
田舎の障害者支援施設を利用して私が痛感したのは、「田舎の精神障害者は孤独だ」ということだった。
ファッションの幅を狭める人たち
時折、このような記事をネット上で見かける。
「○○歳を過ぎたらミニスカはアウト!」、「アラサーなのにフリフリの服なんて!」、「オバサンのくせに露出が多いのは見苦しい!」……といった、年齢で女性のファッションを上から目線でぶった切るものだ。
また、「年相応のメイクをすべき!」と論じる記事もよくある。
この記事に出てくる「ミニスカート」、「リボン」、「フリル」、「ピンク」などというキーワードは、女性性を象徴するものである。
主張を鵜呑みにするのであれば、年を取った女性は女性性を捨てろ、ということなのではないだろうか。
つまり、年を取った女性に、女性としての魅力はないということなのだろうか?
その辺りの女性蔑視発言ともとれる主張に関しては、私の興味のある分野とは少し違うので今回は扱わない。
私が注目するのは、「女性は年齢にあわせて服装を変えなければならない」という主張だ。
そもそも、ファッションとはそんなに息苦しいものだろうか。
昨今のコスプレブームを鑑みても、人とは違う、目立つ服装をしたいと思う日本人は増えてきているように思う。
大阪の地下鉄などには都市伝説のように、「ピンクのロリータ服を着た女性の後姿を見かけて、顔を確認するとしわしわのお婆さんだった」という目撃談がいくつもある。
「男の娘」や「ジェンダーレス男子」などの言葉も生まれ、女物の服を着て化粧をする男性という存在も珍しいものではなくなりつつある。
また、Xジェンダーやトランスジェンダーであれば、あるいは異性装者は、日常的に男装や女装をするわけだ。
そこには誰の許可も本来存在しない。
私も性別の概念が欠落しているなりに、「女性」のコスプレをしたり「男性」のコスプレをしたりする間隔でファッションを楽しんでいる。
あのような主張をする人間は、どれだけ型にはまった生き方をしてるんだろう、どれだけ型からはみ出た人間を許せないんだろう、と思わずにいられない。
年齢も性別も関係なく、好きな格好をすればいいと思う。
見た人が不快な思いをする可能性はあるとはいえ、相当無難な服装でない限り不快な思いをする人間がいる可能性はある。
このような考え方をする人間がいる限り、男性がスカートを履ける時代は来ないのだろうなあと思わずにはいられない。