檸檬栽培日記

オタク/腐女子/セクマイ/精神障害者/田舎在住の人間が好き勝手語ります。

BLにおける受け攻めとジェンダー

私はヲタクで、腐女子でもある。

腐女子というのはBL、つまりボーイズラブと呼ばれる男性同士の恋愛を好む女性の総称だ。

ついでに言えばGL(ガールズラブ)と呼ばれる女性同士の恋愛も好きだし、NL(ノーマルラブ、ノンケラブ)と呼ばれる男女の恋愛も好きだが、中でもBLが一番好きでよく読むし自分でも書いたりする。

 

さて、そんなBLの世界には、GLやNLの世界にはあまりない「受け」と「攻め」という概念が存在する。

簡単に言えば性行為の際、挿入されるのが「受け」で、挿入するのが「攻め」だ。

ゲイ用語でいうところのネコとタチと大体同じ意味である。

GLの場合は挿入を伴わない場合が多いので基本的に受け攻めの概念はないし、NLだと男が攻めで女が受けであることが大半なのでそこを気にすることもないかと思う。

しかし、BLにおける受け攻め問題というのは、戦争が起きるくらいの問題なのだ。

特に受け攻め固定カプ過激派*1と、リバ派*2や雑食派*3の間には、深くて広い川が横たわっているといっていい。

 

そんな受け攻め議論にもキリがないが、私は時折、BLを読んでいて、受けに女性的なものを、攻めに男性的なものを求めていることに違和感を覚えることがある。

現実にゲイの知人がいるわけではないので、ここではBLをファンタジーとして論じさせてほしい。

 

何故、性別というものを超越した同性愛の関係に、ジェンダーを押し付けてしまうのだろう。

もちろん、受けと攻めというのはどちらが突っ込んでる方が萌えるとか、どちらが突っ込まれて喘いでるのが萌えるとか、そういう好みがあるのは分かる。

けれど、それ以外の場面で攻めに男性の役割を、受けに女性の役割を求める必要はないのではないだろうか。

 

具体的には、以下のような場面だ。

 

  • 攻めが大柄で力持ち、受けが小柄で非力
  • 攻めがかっこいい系の顔立ち、受けが可愛い女性的な顔立ち
  • 攻めの方が社会的地位が上
  • 同棲をしている場合、受けが家事を担当する
  • 女装をするのは受け
  • 攻めが年上、受けが年下
  • 攻めは手先が不器用、受けは料理が得意

等等等……。

 

このような設定を付けるなら、もはや男性同士である必要はないのではないだろうか。

男女でもいいのではないか。

そう、思ってしまう。

 

ちなみに私は天邪鬼だからか、年下攻め、背の高い方が受け、攻めの女装、などといった設定が大好物だったりする。

もちろん、この辺は個々の好みもあると思う。

 

受けが料理が下手でもいいじゃない。

攻めがフリーター、受けが社長とかでもいいじゃない。

可愛い趣味があるのが攻めでもいいじゃない。

 

 

そして、個人的に一番もやっとするのがこれだ。

 

「俺(攻め)がお前(受け)を幸せにする」

 

お前ら男同士だろうが。

何で平等じゃないんだよ。

 

個人的にはこれ、男女のプロポーズなどでも最高にもやもやするフレーズだったりする。

男が女を養うことが前提になっているように聞こえるのだが、女の方が稼ぎが良かったり社会的地位があったりパーフェクトウーマンだったりしないのだろうか。

しかし世の女性たちにとっては、この一言が男性の甲斐性を表しているようで、この一言がなければプロポーズに納得できないらしい。

女性ってそんなに受け身一報なんですか?

 

私がもしプロポーズすることがあるなら、されることがあるなら、この言葉を使いたいと思う。

 

「二人で一緒に、幸せになろう」

*1:自分の好きな二人の受け攻めは固定でそれ以外は許さないタイプ

*2:時と場合によって受け攻めが逆になるのもいけるタイプ

*3:どういう組み合わせでも何でも美味しくいただけるタイプ

私が双極性障害と診断されるまで4

過去記事はこちら。

 

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前回はうつと診断されてから4年経ち、大学を休学して母と同居することになったところまで書いた。

 

 

実は、母と同居するようになるまでには、一つの事件があった。

パニック発作だ。

実は今までにも、ストレスや緊張を感じることで動悸が激しくなったり、呼吸が苦しくなったり、とてつもない不安感に襲われたりすることが何度かあった。

元々緊張しやすい性格だったので、あまり気に留めていなかったのだが、この時は家からも実家からも遠く離れた場所で起きてしまった。

 

その日、私はライヴツアーの地方公演に参加するため、遠方に来ていた。

前日地方公演に参戦し、その日は観光などをしていた。

強制送還事件のこともあり、一人で行かせるのは不安という母とは、翌日東京で合流して東京公演に共に参戦する約束になっていた。

しかし、一人で観光をしている途中に急に体調を崩したのだ。

不安感、そして動悸と息苦しさ。

翌日まで一人でいることは無理だと判断した私は、母にヘルプの電話をした。

そしてその日のうちに東京に移動し、先に東京に来ていた母と合流した。

ホテルに無理を言ってツインの部屋に変えてもらい、一泊し、予定通り翌日のライヴに参戦して帰宅した。

 

その一連のことをY先生に話したところ、しばらく母と一緒にいるのがいいと提案された。

当時の私は、ちょっとしたことで不安になり、気持ちが落ち着かなかったのだ。

 

 

母と同居することになり、私はほぼ上げ膳据え膳状態で寝たきりに近い生活になった。

昼頃まで眠り、昼ドラやワイドショーを見ながら昼食を摂り、漫画や雑誌を読み、夕飯を食べ、深夜までネットをして就寝。

そんな毎日を繰り返した。

 

母にはものすごく気を遣わせたと思う。

買い物などで家を空けている間に私が目を覚ましてはいけないので、なるべく朝早く買い物に行ったり、家事も私を起こさないよう静かにしなければならなかったり、深夜まで起きている私のせいで満足に眠れなかったり……。

今思うと、感謝の気持ちしかない。

 

 

そんな生活が、一年近く続いただろうか。

私は、時折一人で外出できるまでに回復した。

家で一人で過ごしていても、不安を感じることがなくなった。

 

結局冬が来る頃には母は実家に帰り、とりあえず私は翌年から大学に復帰することになった。

1回生→1年休学→2回生→1年休学→3回生→1年休学→4回生、となるので、学年は4回生だが在籍は7年目となる。

大学には最大8年しか在籍できないので、あと2年以内で何とか卒業しなければならない。

そのためには、単位も出席日数もかなりぎりぎりだった。

 

結局その年は、大学に入学してからの7年間の中では、最もまともに授業に出ることができた一年だったように思う。

1回生の時は授業に出られなくなったのは12月以降だが、結局後期の試験を受けることができなかったため単位を落としている。

この時は休みがちな授業もあったとはいえ、試験はきちんと全部受け、レポートもちゃんと提出した。

もちろん点数が悪く落としてしまった単位もあるが、あと一年、何とかまともに大学に通うことができれば卒業に手が届く、という状況だった。

 

 

しかし結局、大学8年目の5回生となる翌年が、私の人生の大きなターニングポイントとなった。

つまり、大学を自主退学することになったのだ。

「女子やめたい」って、何になりたいの?

女子力の高い男性が増えている。

というか、正しくは女子力の高い一面をピックアップされる機会が増えたということだろうか。

料理など家事が得意だったり、美容やファッションへの余念がなかったり、可愛いものに対して敏感だったり。

もしくは女装してみたり。

男性芸能人のそういう面が、TVやブログなどで披露されている。

 

それに対して、女性からのこんな意見をよく見る。

 

「女子として負けた」

 

「女子やめたい」

 

「女子として負ける」ってどういうことなんだろう?

間違いなく、生物学的にあなたは女性ですよ。

相手は生物学的に男性なんですよ。

圧倒的にあなたの方が女子なんです。

 

「女子やめたい」ってどういう意味なんだろう?

やめたい、と言って簡単にやめられるものなら、トランスやXの人たちはこんなに悩んだり苦しんだりしてないと思う。

それに、女子をやめて何になるつもりなのか。

まさか男性になろうというのか?

 

おそらく、そのような発言は軽い気持ちで発されていると思う。

けれど、普段から自分の性別に違和感を持っている私のような人間にとっては大きな違和感があり、神経を逆撫でしてしまう言葉なのだ。

 

そもそも「女子力」って何なの?

初めて女の子に恋をした話

私は「女性」として生を受けた。

しかし、幼い頃から性別の壁がとてつもなく苦痛で、何とかそれをぶち壊したいと思っていた。

それなのに、私が入学したのは中高一貫の女子校だった。

地元では進学校として知られていたので、勉強ができれば女子校だろうが共学だろうが構わないと思っていた。

 

 

私は「女性」として育てられた。

小学生の頃は「女子」として扱われたし、「女子」のグループと一緒に遊んだり下校したりすることが多かった。

やがておませな子たちは「好きな人」の話をしたがるようになり、「好きな人教えて。誰にも内緒にするから」と幾度も聞かれた。

私は「女性」は「男性」を好きになるのが自然なのだと思い、ほんの少し「かっこいいな」、「優しいな」、「一緒にいて楽しいな」と思う男子のことを「好きな人」として話した。

 

今思うとそれは確かに「好きな人」だったのだろうが、本当に「恋」だったのだろうか。

小学生の幼い恋、と思えばそれはそれで間違いではないような気もするが。

 

 

私は「女性」として女子校に進学した。

そこで出会ったのが、私が後に好きになることになる女の子、仮に「Aちゃん」と呼ぶことにしよう。

Aちゃんとは同じクラスで、入学直後のオリエンテーションでも同じグループだった。

それぞれ違う小学校から進学していたため、そのグループがそのままクラスでの仲良しグループになった。

 

中2、中3はAちゃんとは別のクラスだった。

始業前、休憩時間、終業後がAちゃんと過ごせる時間だった。

基本的には中学入学直後の仲良しグループの5人で過ごすことが多かったが、次第に私はAちゃんと過ごすことが多くなった。

単純に、共通の話題が増えたためだ。

グループ全員がいわゆるヲタクで好きなジャンルも少しずつ被っていたが、音楽が好きで主に小説を書くのは私とAちゃんだった。

 

Aちゃんはとても頭がいい子だった。

もちろん進学校なので飛び抜けて成績がいいわけではなかったが、勉強以外の雑学や時事問題といった学校では習わないことも詳しかった。

私も雑学や時事問題には興味があったので、非常に話が合った。

可愛いかどうかといえば……まあ、普通だと思う。

しかし、身長がすらりと高く、スタイルがよかった。

とにかく、一緒にいる時間がとても楽しい子だった。

 

いつしか私は少しでも早くAちゃんに会いたくて、学校に少し早く登校するようになった。

毎晩、Aちゃんに手紙を書いた。*1

授業中にも手紙を書いた。*2

連休ともなれば、家の電話で長電話をして家族に怒られた。*3

少し依存しすぎているような気はしたが、それでも行き過ぎた友情だと思っていた。

 

私が、恋している自覚をしたのはおそらく、高校1年生になった初日だった。

私の学校では中学生と高校生では制服のデザインが少し違い、初めて高校生の制服を着たAちゃんを見て、ときめいてしまったのだ。

大人っぽくてかっこよくて、きゅんとしてしまった。

 

 

その後、色々とあって徐々に擦れ違い、私たちは縁を切ることになる。

当時はAちゃんのことを恨みもした。

未練もあった。

けれど今は、彼女が元気で幸せでいればそれでいいかな、と思っている。

*1:当時の中学生はメールできる手段がほぼなかった

*2:学校に携帯電話を持って行くことなどもっての外だった

*3:個人の携帯を持っている中学生は稀だった

私が双極性障害と診断されるまで3

今までの記事はこちら。

 

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前回は、ネット上での晒し行為により心が折れ、Y先生のカウンセリングを受け始めるところまで話した。

この時点で「うつ」と診断されてから約2年半が経っている。

4度目の冬がやって来ようというタイミングだった。

 

秋が終わり、冬が始まる頃、抗うつ剤とカウンセリングによる本格的な治療が始まった。

私はものすごく精神的に不安定だった。

ちょうどその頃に参戦したライヴでは、最初から最後まで終始泣きっぱなしという情緒不安定さだった。

 

しかし、冬が深まるにつれ抗うつ剤向精神薬の効き目が表れ始め、私は感情をなくした。

完全になくなったわけではないが、情緒の起伏が極めて平坦になった。

簡単に説明すれば、あまり笑わなくなった。

TVを見たりして、時折くすっと笑う程度である。

 

そして、自傷行為がどんどんとエスカレートした。

 

結果として、翌年はまた休学することとなった。

1回生→1年休学→2回生→1年休学、なので、休学が明ける頃は私が1回生の頃に同級生だった友人たちが、卒業した後ということになる。

焦りも悔しさもあった。

しかし、この状況ではそうせざるを得なかった。

 

時を前後して、私は派遣のバイトに登録をした。

学校に通えなくとも、趣味にはお金がかかる。

ならば、日払いのバイトでもしてみよう、という安易な動機だった。

大体1日か2日、あるいは研修の日も入れて3日間とか、そういう短期のバイトだけを受けた。

内容的には倉庫業務(検品、値付け、箱詰めなど)や、工場での手伝い、アンケート調査にビラ配り、交通量調査もやった。

そんなに頻繁に仕事の依頼が来るわけではないので、大体月1万~2万、もしくは全く仕事の来ない月もあった。

一般的な接客バイトなどとはかけ離れているが、様々な業種の色々な面を見て知ることができ、いい社会経験になったと今では思う。

オチとしては、登録していた派遣会社が問題を起こして廃業した某人材派遣会社の子会社だったため、時を同じくして私の登録も終了したということだろうか。

 

 

さて、派遣バイトと同人誌製作、ライヴ参戦に明け暮れる一年が始まった。

とはいえ、比重としては ライヴ>>>>>同人誌>>>>>>>>>>バイト くらいである。

 

おそらく、私が人生で一番ライヴに参戦した一年になったと思う。

月に2度はライヴハウスに通っていた記憶がある。

その他、ラジオの公開放送、インストアなどのフリーライヴにも頻繁に出かけた。

 

好きなことはできるのに、何で学校に行けないんだろうと自分を責めたりもした。

かろうじて食事作り等の家事は出来ていたが、部屋の片付けはほとんど出来ず、まるでゴミ屋敷のようだった。

自室だけは同居人とお互いに不干渉だったので、ひどくなっていくばかりであった。

 

その年の初夏、ネット上でとあるトラブルに見舞われ、うつ状態と疑心暗鬼が悪化し、学校にぱったりと通えなくなるということがあった。

ネット上で知り合った友人の中には私の見方をしてくれる者もいたが、匿名で私を攻撃してくる者がいるという恐怖に耐えきれなかった。

仕方なく一旦ブログの更新は停止し、当時ブームとなっていたmixiで限定的に日記を公開するようになった。

 

結局学校にはほとんど通えなくなったため、翌年は休学することとなった。

相変わらず自分の興味のあることしかできない状態ではあったが、大学のサークルに顔を出すなど、学校への恐怖感、拒絶感などはなくなっていた。

 

そしてその年の冬、私はとある事件を起こす。

自殺未遂だ。

 

きっかけはよく覚えていない。

とにかく精神的な落ち込みがひどく、更に季節的なものもあってか過去に好きだった友人と別れた時のことがフラッシュバックし、心が堪え切れられなくなった。

 

気が付いた時、私は実家にいた。

ぼんやりと、病院のベッドにいた記憶、父に支えられてふらふらしながら駅を歩く記憶はあった。

 

詳しく聞くと、同居人が帰宅した時、私は眠剤を大量に飲み、腕を血だらけにしていたらしい。

同居人は慌てて両親に連絡を取り、救急車を呼んだ。

もちろん緊急入院である。

幸いなことに当時住んでいた家からほど近い場所に救急病院があり、同居人は後から着替えなど必要なものを取りに帰ってくれた。

翌日、父が私を実家に連れて帰るために病院にやって来た。

大量に飲んだ薬のせいで意識は朦朧としていたが、傷も縫合し終わり、病院としては特に入院させる必要がないので実家で両親の目の届くところで静養するようにと言われた。

私はこの事件を、「強制送還事件」と呼んでいる。

 

それから約2ヶ月ほど、私は実家で過ごした。

春からは、もう一年休学することが決まった。

しかしバイトや同人誌即売会やライヴなど色々とあったのでずっと実家にいるわけにはいかず、Y先生にもすぐに会える方がいいとのことで、母と一緒に暮らすことを条件に大学の近くの家に戻る。

同居人と入れ替わりに、母と一緒に住むことになる。

 

 

大学に入学して6年目、うつと診断されてから5年目の春のことだった。