檸檬栽培日記

オタク/腐女子/セクマイ/精神障害者/田舎在住の人間が好き勝手語ります。

田舎の障害者支援施設

以前書いたこの記事と、少し関連する内容になる。

 

lemonymint.hatenadiary.jp

 

私は田舎に住んでいるため、障害者と交流する場というものが少ない。

 

各市などの保健課に相談すれば、障害者支援の施設を紹介してもらえる。

私の住んでいる市には、いくつかの障害者支援施設がある。

知的、身体、精神それぞれの作業所や、生活支援などの施設だ。

 

私は精神障害者手帳を持っているため、精神障害者ということになるが、作業所で職業訓練をすることなくバイトを始めた。

体験として何度か足を運んだこともあるが、他人とのコミュニケーションが極端にできないなど、とにかく私よりも社会への適応が難しそうな利用者が多く、私の居場所ではないように感じた。

とはいえ、私もバイトを始めるまでは数年間、寝たきりの引きこもりニート状態だったのではあるが。

 

また、三障害の当事者や家族などが交流をすることができる施設にも、足を運んだことがある。

活動の内容としては、お茶やお菓子をいただきながら世間話をする他、料理、工作、軽スポーツ、ゲーム、DVD鑑賞などがあった。

いずれにせよ、知的や身体の障害者が多いので、彼らが参加しやすいルールや難易度となっている。

つまり、私にとっては「楽にできすぎてしまう」のだ。

 

それが特に顕著だったのが、カードゲームをした時だった。

 

まずはカルタ取り。

人数がそこそこいたため、一組のカルタではすぐに終わってしまうし面白くないとのことで、支援者の方が三種類のカルタを混ぜてのプレーを提案された。

最初は私も枚数の多さに戸惑い、皆と同じペースでカードを取っていた。

しかし、枚数が半分くらいになった頃だろうか。

三種類のカルタはそれぞれ内容が違うため*1、読み札の内容からすぐにどの取り札かが分かってしまう。

知的障害者が大半を占める中、私は順調に枚数を増やした。

案の定、私は他の障害者たちにダブル、トリプルスコアを付けてぶっちぎり優勝してしまった。

 

そして、トランプだ。

ババ抜きや神経衰弱など、運も大きく絡むものはそれほど差がつかない。

問題は、若干の戦略が絡んでくる七並べのようなものである。

私は「6」や「8」で止めるという戦略を誰しも知っているものと思い、使ってしまった。

しかし結果的にその戦略を知っている知的障害者も支援者もおらず、私の一人勝ちとなってしまった。

身体障害者も支援者と二人一組で参加していたが、誰も知らなかったようだった。

 

つまり、精神障害者というのは三障害の中でも孤立しやすいのだと思う。

特に、見た目では健常者と変わらない双極性障害や重度のうつという場合などはそうだろう。

 

精神障害者だけのコミュニティがあれば、多少は違うのだと思う。

実際、全国のレベルで見てみればノーチラス会など、双極性障害の当事者・家族会は存在する。

しかし田舎で精神障害者と知り合うことは、非常に難しい。

まず、引きこもっている者が多いため、外に出ない。

他人の目を気にして障害者であることを隠している。

精神的に他人と関わりたくない気分である。

その他色々な理由があるだろう。

都会であれば、絶対数が多いので障害者同士コミュニケーションを取ろうとする者と出会う機会は増えると思う。

SNSで知り合うこともできる。

田舎では絶対数が少ないことに加え、SNSを利用している者も少ない。

何故なら、平均年齢がものすごく高いのだ。

PCやスマホを利用している精神障害者がどれくらいいるか。

多くがガラケーユーザーなのだ。

結局、精神障害者と出会う場は、精神障害者の作業所か、精神病院しかない。

 

結果的に、私は交流会に行かなくなった。

バイトを始めたことで、時間的に難しくなったこともあるが、行ったことで何も実になるものがないことに気付いたことも大きい。

体験談を交換したくとも、相手がいない。

困っていることを相談したくとも、相手がいない。

とにかく、同じ立場、似た立場の存在が見付からないのだ。

 

田舎の障害者支援施設を利用して私が痛感したのは、「田舎の精神障害者は孤独だ」ということだった。

*1:ことわざ、交通安全、プロ野球、だった

ファッションの幅を狭める人たち

時折、このような記事をネット上で見かける。

 

venustap.jp

 

「○○歳を過ぎたらミニスカはアウト!」、「アラサーなのにフリフリの服なんて!」、「オバサンのくせに露出が多いのは見苦しい!」……といった、年齢で女性のファッションを上から目線でぶった切るものだ。

また、「年相応のメイクをすべき!」と論じる記事もよくある。

 

この記事に出てくる「ミニスカート」、「リボン」、「フリル」、「ピンク」などというキーワードは、女性性を象徴するものである。

主張を鵜呑みにするのであれば、年を取った女性は女性性を捨てろ、ということなのではないだろうか。

つまり、年を取った女性に、女性としての魅力はないということなのだろうか?

 

その辺りの女性蔑視発言ともとれる主張に関しては、私の興味のある分野とは少し違うので今回は扱わない。

私が注目するのは、「女性は年齢にあわせて服装を変えなければならない」という主張だ。

 

そもそも、ファッションとはそんなに息苦しいものだろうか。

昨今のコスプレブームを鑑みても、人とは違う、目立つ服装をしたいと思う日本人は増えてきているように思う。

大阪の地下鉄などには都市伝説のように、「ピンクのロリータ服を着た女性の後姿を見かけて、顔を確認するとしわしわのお婆さんだった」という目撃談がいくつもある。

「男の娘」や「ジェンダーレス男子」などの言葉も生まれ、女物の服を着て化粧をする男性という存在も珍しいものではなくなりつつある。

 

また、Xジェンダートランスジェンダーであれば、あるいは異性装者は、日常的に男装や女装をするわけだ。

そこには誰の許可も本来存在しない。

私も性別の概念が欠落しているなりに、「女性」のコスプレをしたり「男性」のコスプレをしたりする間隔でファッションを楽しんでいる。

 

あのような主張をする人間は、どれだけ型にはまった生き方をしてるんだろう、どれだけ型からはみ出た人間を許せないんだろう、と思わずにいられない。

年齢も性別も関係なく、好きな格好をすればいいと思う。

見た人が不快な思いをする可能性はあるとはいえ、相当無難な服装でない限り不快な思いをする人間がいる可能性はある。

 

このような考え方をする人間がいる限り、男性がスカートを履ける時代は来ないのだろうなあと思わずにはいられない。

私が双極性障害と診断されるまで2

lemonymint.hatenadiary.jp

 

これの続きの話になる。

 

前回は、私が心療内科「うつ」と診断され、カウンセリング中心の治療をしながら、改善の兆しが見えないままに一年が経とうとするところまで書いた。

そして私がある決意をした、というところで終わっていたと思う。

その決意を、私は心療内科医に伝えた。

 

「薬物治療をしてください。薬を処方してください」

 

カウンセリングだけでは無理だと思い、薬物治療を頼んだのだ。

そろそろ病院にかかって一年が経とうというのに、そして春からは一応復学予定なのに、体調が改善しない。

最後の頼みの綱として、薬に頼ろうと思った。

 

最初は軽い抗うつ剤を処方された。

頓服や入眠剤も出してもらった気もするが、もう少し後だったかもしれない。

しかし、その抗うつ剤がどうにも身体に合わず、副作用で頭痛や気分の悪さなどが耐えられなかったため、すぐに打ち切りとなった。

結局、二週間ほどでカウンセリング中心の治療に戻った。

 

翌年の4月、私は大学に復学した。

一年遅れての二回生である。

年齢的には浪人生と同じなので、そこまで浮くことはなかった。

大学生活を堪能しようと、サークルにも入った。

授業は休みがちだったが、サークルにはなるべく顔を出すようにしていた。

ちなみに音楽好きが高じて音楽系のサークルだったが、割とゆるく、打ち上げだの親睦会だの飲み会が多かった。

サークルに入ったことで大学生活を本当に楽しめたし、夢見ていた青春を味わえた気がする。

しかし、授業には出られない日も続いた。

 

この年の秋、ゼミ担の教授が私と少し話をした。

教授にも引きこもりのお子さんがいるようで、私の状況にも理解があった。

今後どのような勉強がしたいか、将来どのような職業に就きたいか、色々話した。

教授は最終的に、私にこのような言葉をかけてくれた。

 

「あなたの歩みは人よりゆっくりなのかもしれない。ならば、人が4年かかって卒業するところを、8年かかって卒業しなさい」

 

これが私の目標となった。

 

 

さて、この年から私は新たなジャンルの同人サイトを開設し、そのサイトを通してできた友人との交流を始めた。

秋頃にはそれまで同人誌即売会といえばオンリーイベントにしか参加したことがなかったのだが、初めていわゆる赤ブー系のコミックシティに参加した。

これを機に、2、3ヶ月に一度定期的にコミックシティやスパコミに参加することになる。

当時のジャンルはまだジャンル人口も多く、個人主催のオンリーもあり、本もそこそこ売れた。

自己承認欲求を満たす意味では、非常に意義のある行為だったと思う。

 

また、音楽ブログの閲覧者、訪問者数も増えていた。

ネットの世界ではそこそこの有名人になりつつあった。

有名ブロガーさんと対等な立場でやり取りができることが、とても嬉しかった。

 

その一方で、現実世界では相変わらず学校に通えなくなっていた。

サークルにも、顔を出さないことが続くこともあった。

この年から同居人ができたため二部屋のアパートを引っ越し、家事の分担も始めたため、洗濯物がたまるとかゴミ出しが滞るとかいったことはなくなった。

買い物には行けないこともあったのでそういう時は同居人頼みであったが、私の分担である食事作りだけはなるべくこなしていた。

同居人に、学校に行かないことを咎められたり責められたりもした。

入浴の時間が遅い、台所を片付けない、などと迷惑かけたことも多々ある。

本当に申し訳なかったと思う。

 

 

そんなこんなで「うつ」と診断されて、3度目の冬がやって来た。

とりあえず翌年は進級し、三回生として大学に通うことになった。

 

しかしこの冬、私はこのあと数年間自分を苦しめることになるあることに手を出すことになる。

 

自傷行為である。

 

始めは剃刀でうっすら傷跡を付ける程度だった。

そこからだんだんエスカレートし、何度も何針も縫合されることになったり、傷跡を隠すためにリストバンドや長袖の上着が手放せなくなってしまった。

リスカ、アムカで満足できなくなった私は、太腿も傷付けた。

 

自傷行為に関しては、また改めて詳しく書こうと思う。

とにかく、自傷行為を始めた時期がこの頃だったことだけ書き記しておく。

 

 

大学三回生になった私は、比較的順調に学校に通い始めた。

もちろん休みがちではあるが、ギリギリ単位は取れるくらいのペースである。

しかしその数か月後、急転直下の出来事が起こる。

晒し被害だ。

私の音楽ブログが、暴言と共に2ちゃんねるに晒された。

このことで私は疑心暗鬼になり、周りの人間の目が怖くなり、完全に外出できなくなってしまった。

もちろん、学校は休み続けるしかなかった。

 

 

その後、私は病院を変え、本格的に薬物治療を始めることとなる。

時を同じくして、以前の記事で紹介したY先生のカウンセリングを受け始めた。

 

しかし私の症状は、どんどん悪化していくこととなる。

私が双極性障害と診断されるまで1

双極性障害に限らず、精神疾患というものは判断が非常に難しい。

私の場合、初めて心療内科「うつ」と診断されてから精神科で「双極性障害」と診断されるまで、実に5~6年もの時間がかかっている。

もっとも、私の主治医*1からは、「あなたは病気ではないけれど、双極性障害によく似た症状が出ているので便宜的に病名を付けている」と言われている。

普通の状態を「5」、うつのどん底を「0」、躁のピークを「10」だとすると、確かに私の精神状態は0から5までの間を目まぐるしく移り変わっていることが多い。

ただ、感情の波が激しく、スイッチが入るといくらでも集中して一つの物事に取り組む、アイディアが湧き出して止まらなくなる……などの躁の特徴もあるにはある。

何より、双極性障害の治療に使われる向精神薬を処方され、一定の効き目が出ている。

なので、主治医による見立ての正否は今回、あまり深く考えないこととする。

 

 

さて、私にうつのような症状が現れ始めたのは中学の頃である。

思春期独特の精神的な不安定さかと思っていたが、今思うとそれにしては異常だった。

将来を悲観したり、生きる目的を見失ったり、家では自室にこもりきり、休日はずっと寝ている……そんなことが2、3年ほど続いた。

 

高校生になり、今思えば片想いしていた同性の友人と縁を切ったことからクラスで孤立*2したことがきっかけで、学校を休みがちになった。

高三の時、縁を切った彼女と同じクラスになったことから私は完全に不登校になり、保健室登校を経て何とかクラスに戻れるようになり、先生方のご好意もあり大学受験、高校卒業という目標を達成することができた。

このことについてはまた詳しく書こうと思う。

 

心機一転、私は大学生となった。

親元を離れ一人暮らしを始め、順風満帆に思えた。

しかしその年の冬、急に大学に行けなくなる。

気持ちが沈みがちで、家にこもりきり、徒歩数分のコンビニでカップ麺やおにぎりや菓子パンを買う以外はほとんど外出することがなくなった。

入浴することも億劫で、三日に一度、ひどい時は週に一度入ればいい方だった。

週に一度か二度コインランドリーに通っていたのも行けなくなったために洗濯物もたまり、替えのパンツもなく、洗面台で洗ってベランダに干して穿いたりもした。

そんな私の状態を見かねて親が私の家を訪ね、身の回りの片付けと掃除、洗濯、それから私を銭湯に連れて行き、心療内科の受診を勧めた。

高校の頃不登校だった時にカウンセラーを紹介してもらった医師を介し、大学に近い病院のカウンセラーと心療内科を紹介してもらった。

 

初めての心療内科

「うつ症状」と診断された。

カウンセリングを中心に治療をしていこうと言われた。

心療内科医の診察は、毎回3分程度で終わる。

「食欲はあるか?」、「ちゃんと寝ているか?」、「妊娠はしていないか?」、この三つの質問に答えればおしまいだった。

最初は薬も出してもらっていなかったので、カウンセラーとの面談が私の治療のほぼ全てだった。

 

カウンセリングでは、色んなことをした。

バウムテストのような絵を描くこともしたし、箱庭も作った。

しかしその行為を通して私の心理状態を把握することが目的ではなく、私がその作業を通して心の中を整理するのが目的だったという。

昔の話もしたし、今興味のあること、好きなことの話もした。

しかし春になっても改善はなく、結局翌年は一年間休学することとなる。

 

ちょうどこの頃、一人暮らし生活に慣れた私はライヴに時折通うようになっていた。

学校には行けないけれど、ライヴには行ける。

矛盾しているように見えるかもしれないけれど、ライヴは私が唯一自発的に外出できる場だった。

例えば高熱で食べ物を受け付けない時、食事は摂れないけれどアイスやゼリーなら何とか喉を通る、みたいな感じといえば伝わるだろうか。

学校や買い物、病院、といった日常生活で出かけるべき場所が食事だとすれば、ライヴのような娯楽の場は喉を通りやすいアイスやゼリーなのである。

アイスやゼリーが食べられるならちゃんと白米を食べろ、というのは酷だ。

そう理解してほしい。

 

 

さて、休学が決まった私はひたすら家にこもって自分のできることをした。

 

大学に入ってから開設したアニメの二次創作小説サイトの更新、更に同人誌を作って即売会に参加する、時折コスプレ衣装も作ってコスプレもした。

 

また、TVをひたすら垂れ流していた。

深夜アニメや、ドキュメンタリー、それから教養番組が多かった。

特にNHK教育*3の高校教育講座が好きだった。

ドキュメンタリーもそうだが、自分の知らない知識を得るという刺激が欲しかったのだと思う。

 

2ちゃんねるも見始めた。

当時は「半年ROMれ」を律儀に守り、最初は現行スレ、過去ログをひたすらROMった。

 

何故か都市伝説にも興味を持った。

都市伝説をまとめてあるサイトを片っ端から探し、口裂け女やテケテケなどから放送禁止となった伝説のお蔵入り放送などまで、とにかく読み漁った。

おかげで津山三十人殺し狭山事件などにまで詳しくなってしまった。

 

元々音楽が好きだった私は持っているCDの感想を書き、それをブログで公開した。

当時はブログ全盛期で、音楽レビューやライヴレポを書いているブログが多数存在していた。

また、好きなアーティストも次々とブログを開設し始めたのもこの時期で、ブログを通じた交流も盛んだった。

 

 

そんな感じで私は引きこもりまっしぐらの生活を続けることとなった。

二週間に一度のカウンセリング以外は、相変わらずコンビニくらいしか外出しない。

出かけるといえば、ライヴか同人誌の即売会。

 

病状が一向に改善しないまま一年が経とうとしていた。

季節はいつしか秋になり、私は一つの決断をした。

*1:以前の記事に出てくるスピリチュアルに傾倒したような言動の多い精神科医

*2:中高一貫の女子校だったため、グループから外れたものは孤立するしかなかった

*3:Eテレ

夜行バスに乗車拒否された件

私が未だに根に持っているというか、恨みを抱いている話をしようと思う。

簡単に言えば、

 

「異性同士を隣り合わせに座らせることはできないため、男性は空席があるが女性は満席」

 

とのことだった。

私が一般的なセクシャリティの持ち主であれば、性別問わず空席表示をしていた事には不満を抱いたものの、仕方がないと諦めただろう。

しかし、残念ながら私には 性別の概念が欠落している のだ。

男でも女でもある、もしくは男でも女でもない人間だと自認しているため、「男だから」、「女だから」で決められることは非常に腹立たしいし、悔しい。

そんな事件だった。

 

 

発端は、東京に遊びに行った時のことである。

帰りの時間が不明だったため、間に合えば夜行バスで帰り、間に合わなければその日は一泊して朝一の新幹線で帰ろうと思っていた。

翌日も昼前からバイトだったので、若干強行スケジュールだが仕方がない。

 

帰りの時間にようやくメドが経った段階で、私は夜行バスのサイトで空席照会をした。

私が乗る予定の便には、一桁ではあるが空席があるようだった。

ちなみにその時、異性同士が隣り合わせに座れないことは注意書きしてあったが、空席照会の段階で性別を選択するというステップはなかった。

なので、この段階で女性は満席、と分かっていれば私は別の手段を選択しただろう。

 

バスの乗り場には、数名の老若男女がいた。

皆予約をしているようで、私のような飛び込み客は最後に受付をするシステムだ。

「予約をしていないのでお先にどうぞ」と促すと、どの人も会釈をして先に乗り込んだ。

つまり、乗客は「予約をしていない女性」の存在を知っていたはずである。

 

そして私の受付の際、係の者に言われた。

「異性を隣り合わせに座らせることはできないので、女性は乗れません」と。

私は隣が男性でも気にしない、と主張した。

そもそも性別の概念が欠落しており、男でも女でもないことも伝えた。

しかし、身体も戸籍上も女性であることを指摘され、私は黙らざるを得なかった。

実際、男性客が女性客を車内で強姦する事件が多発しており、そういうことが起きても責任は取れないし、訴えられても困るので、決まりでそういうことになっていることを説明された。

では、男性客が男性客に襲われたり、男性客が女性客に襲われるのはいいのか、と尋ねたが取り合ってもらえなかった。

性同一性障害トランスジェンダーの客に対してはどういう対応をするのかということも質問したが、あなたが戸籍上女性ならばその議論は今必要ない、とばっさり。

私があまりにごねたもので、男性客に席を移動してもらって空席ができたら乗っていい、とも言われた。

そして男性客に席の移動を頼むために一旦車内に入った係の者は、一分ほどで出てきた。

そして、誰も移動したくないと言っているので駄目です、と伝えられた。

まず、一分ほどで全ての男性客に説明して、意見を聞けたのか? という疑問が湧いた。

更に、「予約をしていない女性」の存在は皆知っていて、先へと促す私へお礼を言う者もいたのだ。

そんなに全員冷たい対応をしたというのか?

一応車内に入って「客に聞いた」という体で、何もせずに出て来たのではないかという疑念があったが、出発時刻を過ぎるということでそれ以上の追及はできなかった。

 

その後、バス乗り場の係の者に説明を求めた。

先程の女性客が男性客に性的被害に遭ったことなどを再び聞かされた。

空席照会の時点では男女関係なく空席があったことも伝えたが、バス乗り場の管轄下ではないのでと一蹴された。

気分が悪くなったので、私はそれ以上の議論を諦めた。

 

結果として私は別の行き先の夜行バスに乗り、朝到着した場所から新幹線に乗り継ぐという方法で帰宅した。

 

性同一性障害トランスジェンダー、Xジェンダーなどの者にとっては、こういったことで理不尽な思いをするのは日常茶飯事かもしれない。

少なくとも私はとてつもなく悔しかった。

人目をはばからず往来で泣いた。

男と女の二択しかない社会が窮屈だと思った。

 

まあ、夜行バスに限っては、全席3列シートになれば解決する問題なのだけれど。