公式が「BL要素」と明言するマズさ
「原作はいろんな愛にあふれている。師弟愛、家族愛、男女の愛、そしてボーイズラブ。いろんなラブストーリーが詰まっているので、1年間、日本のみなさんに、西郷どんに惚れてもらって元気になってもらいたい」
再来年の大河に関するこの報道に、ネット上の大河ファン、腐女子、セクシャルマイノリティたちがざわついた。
私は大河ドラマを熱心に見ていた時期もあるし、腐女子でもあるのでそういう視点で妄想したこともあるし、セクシャルマイノリティの立場でもある。
それぞれの立場から、この発言のまずさを論じてみたい。
大河ファンとして
そんなものは求めていない
これに尽きる。
大河ドラマというからには、史実をベースに重厚なドラマが見たいのだ。
最近は安っぽいラブコメのような人間ドラマにばかり時間を割き、合戦シーンが一瞬で終わる、もしくはナレーションのみ、ということも珍しくない。
大河ファンの求めるものと製作者が描きたいもののズレが徐々に大きくなっている気がする。
当時「ボーイズラブ」という言葉はなかった
師弟愛、家族の愛、男女の愛、というのならばそこで「ボーイズラブ」ではなく「同性愛」や「男色」、「衆道」という言葉を使うべきではないだろうか。
この表現に関しては、セクシャルマイノリティとしての立場からも非常にもやっとするので、詳しくは後述する。
腐女子として
公式に前面に押し出されると冷める
腐女子は「行間」を読むことが非常に得意だし好きだ。
画面で描かれていない「間」のシーンで、実はこういうことがあったのではないか、ああいう会話があったのではないか、そういうことを妄想する。
前のシーンでは素っ気ない関係だった二人が、次のシーンでは少し親密になっている。
それくらいの匂わされる程度の変化で、色々と妄想する人種なのだ。
もちろん、あからさまなBL描写に喜ぶ人たちもいる。
しかしそれは比較的ライトな腐女子ではないだろうか。
長年こじらせたヘビーな腐女子であればあるほど、あからさまな描写は嫌悪する。
公式に「BL描写入れます」とか言われると、「こういうのが好きなんでしょ? さあ興奮して! 妄想して!」と上から目線で言われているような気分になる。
腐女子という存在が軽く扱われているような気しかしない。
セクシャルマイノリティとして
「同性愛」を「BL」と言い換えるな
私は「BL要素あり」という報道には、「あー、また、『同性愛』をポルノ用語扱いして、『BL』に言い換えてるのかー。いいかげんにしてくれ」と思いました。当時の薩摩隼人は、衆道、普通だからなっ!#eiga https://t.co/I2PV4bzPKZ @eigacomさんから
— 森奈津子 (@MORI_Natsuko) 2016年11月2日
根本的に、衆道とBLは似て非なるものであると思う
— 片山愁 (@shu_kata) 2016年11月2日
呟いている方々がセクシャルマイノリティかどうかは確認していないが、要はこういうことだ。
テレビ的に「ゲイ」を「オネエ」と言い換えるのと同じあれである。
「同性愛」や「ゲイ」という言葉が言葉狩りのように言い換えられる国に、LGBT差別を本気でなくす気はあるのだろうか。
そして、「同性愛」と「ボーイズラブ」は明確に別物である。
「同性愛」は現実のもの、創作のもの、全てを包括する物であるが、「ボーイズラブ」は腐女子に消費される創作物のことしか指さない。
「BLはファンタジー」という有名な言葉もあるが、それくらいボーイズラブは現実世界から切り離されたものなのだ。
結論
来年の大河ドラマが始まる前にもうプチ炎上してしまった再来年の大河ドラマ。
大河ドラマファン、腐女子、セクシャルマイノリティにそっぽを向かれて勝機はあるのか。
それとも、あの発言に関する謝罪なり弁明なりが行われるのだろうか。
BLにおける受け攻めとジェンダー
私はヲタクで、腐女子でもある。
腐女子というのはBL、つまりボーイズラブと呼ばれる男性同士の恋愛を好む女性の総称だ。
ついでに言えばGL(ガールズラブ)と呼ばれる女性同士の恋愛も好きだし、NL(ノーマルラブ、ノンケラブ)と呼ばれる男女の恋愛も好きだが、中でもBLが一番好きでよく読むし自分でも書いたりする。
さて、そんなBLの世界には、GLやNLの世界にはあまりない「受け」と「攻め」という概念が存在する。
簡単に言えば性行為の際、挿入されるのが「受け」で、挿入するのが「攻め」だ。
ゲイ用語でいうところのネコとタチと大体同じ意味である。
GLの場合は挿入を伴わない場合が多いので基本的に受け攻めの概念はないし、NLだと男が攻めで女が受けであることが大半なのでそこを気にすることもないかと思う。
しかし、BLにおける受け攻め問題というのは、戦争が起きるくらいの問題なのだ。
特に受け攻め固定カプ過激派*1と、リバ派*2や雑食派*3の間には、深くて広い川が横たわっているといっていい。
そんな受け攻め議論にもキリがないが、私は時折、BLを読んでいて、受けに女性的なものを、攻めに男性的なものを求めていることに違和感を覚えることがある。
現実にゲイの知人がいるわけではないので、ここではBLをファンタジーとして論じさせてほしい。
何故、性別というものを超越した同性愛の関係に、ジェンダーを押し付けてしまうのだろう。
もちろん、受けと攻めというのはどちらが突っ込んでる方が萌えるとか、どちらが突っ込まれて喘いでるのが萌えるとか、そういう好みがあるのは分かる。
けれど、それ以外の場面で攻めに男性の役割を、受けに女性の役割を求める必要はないのではないだろうか。
具体的には、以下のような場面だ。
- 攻めが大柄で力持ち、受けが小柄で非力
- 攻めがかっこいい系の顔立ち、受けが可愛い女性的な顔立ち
- 攻めの方が社会的地位が上
- 同棲をしている場合、受けが家事を担当する
- 女装をするのは受け
- 攻めが年上、受けが年下
- 攻めは手先が不器用、受けは料理が得意
等等等……。
このような設定を付けるなら、もはや男性同士である必要はないのではないだろうか。
男女でもいいのではないか。
そう、思ってしまう。
ちなみに私は天邪鬼だからか、年下攻め、背の高い方が受け、攻めの女装、などといった設定が大好物だったりする。
もちろん、この辺は個々の好みもあると思う。
受けが料理が下手でもいいじゃない。
攻めがフリーター、受けが社長とかでもいいじゃない。
可愛い趣味があるのが攻めでもいいじゃない。
そして、個人的に一番もやっとするのがこれだ。
「俺(攻め)がお前(受け)を幸せにする」
お前ら男同士だろうが。
何で平等じゃないんだよ。
個人的にはこれ、男女のプロポーズなどでも最高にもやもやするフレーズだったりする。
男が女を養うことが前提になっているように聞こえるのだが、女の方が稼ぎが良かったり社会的地位があったりパーフェクトウーマンだったりしないのだろうか。
しかし世の女性たちにとっては、この一言が男性の甲斐性を表しているようで、この一言がなければプロポーズに納得できないらしい。
女性ってそんなに受け身一報なんですか?
私がもしプロポーズすることがあるなら、されることがあるなら、この言葉を使いたいと思う。
「二人で一緒に、幸せになろう」
「女子やめたい」って、何になりたいの?
女子力の高い男性が増えている。
というか、正しくは女子力の高い一面をピックアップされる機会が増えたということだろうか。
料理など家事が得意だったり、美容やファッションへの余念がなかったり、可愛いものに対して敏感だったり。
もしくは女装してみたり。
男性芸能人のそういう面が、TVやブログなどで披露されている。
それに対して、女性からのこんな意見をよく見る。
「女子として負けた」
「女子やめたい」
「女子として負ける」ってどういうことなんだろう?
間違いなく、生物学的にあなたは女性ですよ。
相手は生物学的に男性なんですよ。
圧倒的にあなたの方が女子なんです。
「女子やめたい」ってどういう意味なんだろう?
やめたい、と言って簡単にやめられるものなら、トランスやXの人たちはこんなに悩んだり苦しんだりしてないと思う。
それに、女子をやめて何になるつもりなのか。
まさか男性になろうというのか?
おそらく、そのような発言は軽い気持ちで発されていると思う。
けれど、普段から自分の性別に違和感を持っている私のような人間にとっては大きな違和感があり、神経を逆撫でしてしまう言葉なのだ。
そもそも「女子力」って何なの?
初めて女の子に恋をした話
私は「女性」として生を受けた。
しかし、幼い頃から性別の壁がとてつもなく苦痛で、何とかそれをぶち壊したいと思っていた。
それなのに、私が入学したのは中高一貫の女子校だった。
地元では進学校として知られていたので、勉強ができれば女子校だろうが共学だろうが構わないと思っていた。
私は「女性」として育てられた。
小学生の頃は「女子」として扱われたし、「女子」のグループと一緒に遊んだり下校したりすることが多かった。
やがておませな子たちは「好きな人」の話をしたがるようになり、「好きな人教えて。誰にも内緒にするから」と幾度も聞かれた。
私は「女性」は「男性」を好きになるのが自然なのだと思い、ほんの少し「かっこいいな」、「優しいな」、「一緒にいて楽しいな」と思う男子のことを「好きな人」として話した。
今思うとそれは確かに「好きな人」だったのだろうが、本当に「恋」だったのだろうか。
小学生の幼い恋、と思えばそれはそれで間違いではないような気もするが。
私は「女性」として女子校に進学した。
そこで出会ったのが、私が後に好きになることになる女の子、仮に「Aちゃん」と呼ぶことにしよう。
Aちゃんとは同じクラスで、入学直後のオリエンテーションでも同じグループだった。
それぞれ違う小学校から進学していたため、そのグループがそのままクラスでの仲良しグループになった。
中2、中3はAちゃんとは別のクラスだった。
始業前、休憩時間、終業後がAちゃんと過ごせる時間だった。
基本的には中学入学直後の仲良しグループの5人で過ごすことが多かったが、次第に私はAちゃんと過ごすことが多くなった。
単純に、共通の話題が増えたためだ。
グループ全員がいわゆるヲタクで好きなジャンルも少しずつ被っていたが、音楽が好きで主に小説を書くのは私とAちゃんだった。
Aちゃんはとても頭がいい子だった。
もちろん進学校なので飛び抜けて成績がいいわけではなかったが、勉強以外の雑学や時事問題といった学校では習わないことも詳しかった。
私も雑学や時事問題には興味があったので、非常に話が合った。
可愛いかどうかといえば……まあ、普通だと思う。
しかし、身長がすらりと高く、スタイルがよかった。
とにかく、一緒にいる時間がとても楽しい子だった。
いつしか私は少しでも早くAちゃんに会いたくて、学校に少し早く登校するようになった。
毎晩、Aちゃんに手紙を書いた。*1
授業中にも手紙を書いた。*2
連休ともなれば、家の電話で長電話をして家族に怒られた。*3
少し依存しすぎているような気はしたが、それでも行き過ぎた友情だと思っていた。
私が、恋している自覚をしたのはおそらく、高校1年生になった初日だった。
私の学校では中学生と高校生では制服のデザインが少し違い、初めて高校生の制服を着たAちゃんを見て、ときめいてしまったのだ。
大人っぽくてかっこよくて、きゅんとしてしまった。
その後、色々とあって徐々に擦れ違い、私たちは縁を切ることになる。
当時はAちゃんのことを恨みもした。
未練もあった。
けれど今は、彼女が元気で幸せでいればそれでいいかな、と思っている。
ファッションの幅を狭める人たち
時折、このような記事をネット上で見かける。
「○○歳を過ぎたらミニスカはアウト!」、「アラサーなのにフリフリの服なんて!」、「オバサンのくせに露出が多いのは見苦しい!」……といった、年齢で女性のファッションを上から目線でぶった切るものだ。
また、「年相応のメイクをすべき!」と論じる記事もよくある。
この記事に出てくる「ミニスカート」、「リボン」、「フリル」、「ピンク」などというキーワードは、女性性を象徴するものである。
主張を鵜呑みにするのであれば、年を取った女性は女性性を捨てろ、ということなのではないだろうか。
つまり、年を取った女性に、女性としての魅力はないということなのだろうか?
その辺りの女性蔑視発言ともとれる主張に関しては、私の興味のある分野とは少し違うので今回は扱わない。
私が注目するのは、「女性は年齢にあわせて服装を変えなければならない」という主張だ。
そもそも、ファッションとはそんなに息苦しいものだろうか。
昨今のコスプレブームを鑑みても、人とは違う、目立つ服装をしたいと思う日本人は増えてきているように思う。
大阪の地下鉄などには都市伝説のように、「ピンクのロリータ服を着た女性の後姿を見かけて、顔を確認するとしわしわのお婆さんだった」という目撃談がいくつもある。
「男の娘」や「ジェンダーレス男子」などの言葉も生まれ、女物の服を着て化粧をする男性という存在も珍しいものではなくなりつつある。
また、Xジェンダーやトランスジェンダーであれば、あるいは異性装者は、日常的に男装や女装をするわけだ。
そこには誰の許可も本来存在しない。
私も性別の概念が欠落しているなりに、「女性」のコスプレをしたり「男性」のコスプレをしたりする間隔でファッションを楽しんでいる。
あのような主張をする人間は、どれだけ型にはまった生き方をしてるんだろう、どれだけ型からはみ出た人間を許せないんだろう、と思わずにいられない。
年齢も性別も関係なく、好きな格好をすればいいと思う。
見た人が不快な思いをする可能性はあるとはいえ、相当無難な服装でない限り不快な思いをする人間がいる可能性はある。
このような考え方をする人間がいる限り、男性がスカートを履ける時代は来ないのだろうなあと思わずにはいられない。