ゲームが終わる=死ぬ?
私は元々ゲーマーではないが、スマホゲームはよくプレイする。
ツムツムなどのパズルゲーム、スクフェスなどのリズムゲーム、それからポケモンGOが主だ。
うつが酷いと集中力が続かないので、読書をするよりスマホゲームをプレイする方が私には向いているらしい。
さて、私の家族はいわゆる「TVゲームを買い与えない」家庭だった。
母は比較的寛容なのだが、父はTVを見たりゲームをするより本や新聞を読む方が有意義だと考える人間だった。
私の弟はゲームが好きなので、誕生日だかクリスマスだかにねだって小学生低学年の頃に携帯ゲーム機*1を買い与えられた。
私はというと、ゲームに苦手意識があった*2こともあり、ゲームをねだることはほとんどなかった。
弟のゲーム機を借りるか、友人の家などでたまにプレイさせてもらう程度だった。
私が高3になった頃、弟が自分で溜めたお年玉とお小遣いでPS2を買った。
これが我が家に初めてTVゲームが存在した瞬間だった。
そんな環境だったこともあり、私の両親にはゲームの知識がほとんどない。
そのせいか、母親が私によくこんな言葉を投げかける。
「次に死んだら○○して」
アクションゲームならまだしも、スクフェスをやってる時に言われると結構ドキッとする。
ラブライブ!は基本的に死のような重いテーマは扱わないし……。
その時私は初めて、ゲームをしない人間にとって、「ゲームに一区切りつく」ということは「死ぬ」ということなのだなあと気付いた。
おそらく、一般にイメージされるゲームというのは、スーパーマリオのようなものだろう。
クリボーに当たって死ぬ。
穴に落ちて死ぬ。
土管からパックンフラワーが出てきて死ぬ。
棘に刺されて死ぬ。
そんなマリオのイメージなのだ。
実際にはツムツムなどは時間制限だし、リズムゲームもミスを繰り返すと途中で体力がなくなりゲームオーバーになることもあるが、基本的には一曲が終わるタイミングだ。
「死んで終わる」という概念は存在しない。
話は少しそれるが、「ゲームの中なら死んでも復活するから、命を軽く考えるようになる」と言われることがよくある。
本当にそうだろうか、と私は思う。
確かにスーパーマリオなどのアクションゲームは「あと1機」などと命が複数存在するため、一度死んでも大丈夫、という感覚になるかもしれない。*3
しかし、キャラクターを育成して戦わせるゲームだとどうだろう。
例えばポケモン。
例えば刀剣乱舞。
そういった類のゲームだと、確かに同じキャラクターを複数入手することも可能だ。
しかし、同じ個体は二つと存在しない。
2匹目のピカチュウは、最初のピカチュウとはやはり別物なのだ。
私の周りの審神者*4も、推し刀を戦闘に出して軽傷を受けて帰還するたびに心を痛めていたりする。
最近は祖父母との同居も減り、子どもが死を身近に感じる機会は減っていると思う。
ゲームの世界で大切な存在の死を疑似体験することにも、もしかしたら意味があるのかもしれない。