田舎の少女が舞台に出会う
私の趣味の一つに、舞台観劇がある。
舞台の芝居やミュージカルというものは、基本的に東京での開催がほとんどで、地方巡業というのは珍しい。
もちろん地方にもその地方出身者などによる劇団があり、公演を行っている都市もある。
最近は特に2.5次元と呼ばれるジャンル*1を中心に、全国の映画館でライヴビューイングや上映会なども行われている。
しかし、基本的に地方在住者にとって舞台の芝居に触れるということは、なかなかハードルの高いものである。
私の生まれ育った場所は、客観的に見て田舎である。
芝居小屋もなければ劇団もなく、地方巡業として県内に来るものといえば劇団四季やTVドラマなどで活躍する有名俳優が主役を張るものなどがほとんどで値段も高ければ敷居も高い。
比較的容易に触れることのできる舞台といえば、学芸会の劇や演劇部の発表、温泉施設の大衆演劇、数年に1度学校に来て芝居を見せてくれる劇団による演劇鑑賞会くらいだ。
私も小学生の頃は演劇鑑賞会で「杜子春」の一人芝居を見たし、高校の頃には思春期の青春や友情といったものをテーマにした芝居を見た記憶がある。
ただ、「杜子春」はやはり教訓的な意味合いが強く、青春ものも好みではなかったので、芝居の楽しさを知るには至らなかった。*2
ちなみに高校の修学旅行では歌舞伎座で歌舞伎を見たが、旅の疲れで眠気と戦っていたことと、幕の内弁当が美味しかったことしか覚えていない。
そんな私が舞台演劇に興味を持つきっかけとなったのは、高校3年の頃に「赤の神紋」(桑原水菜著)という小説を読んだことだった。
コバルト文庫ということでラノベに分類されるかとは思うし、耽美な同性愛描写も多少あるのでBL小説にもなるかと思う。*3
簡単にあらすじを紹介すると、主人公は劇作家であり、目の上のたんこぶというか雲の上の存在というか、敬愛しながらもライバル視する劇作家がいる。
そのライバル劇作家が書いた作品の一つが「赤の神紋」である。
ある日、主人公は一人の若者に役者としての才能を見出し、演劇の世界に招き入れる。
若者は主人公にとって「赤の神紋」の主役を理想的に演じるかもしれない存在であった。
紆余曲折あり、主人公の援助も受けながら役者としてのキャリアを積んだ若者は、「赤の神紋」の主演のオーディションに挑む……といったものだ。
私にとってほとんど未知の世界だった演劇の世界が、そこには丁寧に描かれていた。
恥ずかしい話だが、私はこの小説を読むまで演劇ヲタには常識である「マチネ」、「ソワレ」、といった舞台用語も全く知らなかった。
「上手」と「下手」がどちらがどちらかも分からなかった。
そもそも、劇作家という職業を知ったのもほぼ初めてだったように思う。
それまではシェイクスピアのような伝統のある戯曲や、小説など既存の作品を脚本として芝居が作られると思っていたのだ。
そんなこんなで芝居の世界に興味を持った私は、大学に入学して間もなく、大学の演劇部に仮入部することとなる。
しかし、そこで味わったのは大きなカルチャーショックだった。
部室に初めて訪れた時、先輩たちは私たち新一回生に「好きな劇団は?」と質問を投げかけた。
私は、劇団など何一つ知らなかった。
同級生たちは、劇団☆新感線など、人気の劇団の名前をいくつか挙げた。
その後、先輩のおごりで夕飯を食べながら色々話もさせてもらったが、帰る頃にはここは私の居場所ではないと悟った。
やはり、田舎育ちで演劇に触れる機会が少ない者が演劇の世界を目指すのには、無理があるのだと思った。
今ならさすがに、その考えは極端なものだったと分かる。
実際、私は色々な舞台を見に行くが、特に特定のお気に入りの劇団など今もない。
カムカムミニキーナや*pnish*など、好みだなと思う劇団はあるけれども、公演があるならぜひ観に行こうと判断する基準は今も昔も劇団よりも役者だ。
その役者に関しても、私は知識が偏っていることを自覚している。
元々舞台を見に行くきっかけとなったのが特撮ヒーロー番組に出ていた役者が出演すると知ったからで、その共演者、そのまた共演者、とある程度は知識も広がった。
けれど田舎から観劇に行くには多くても月に2、3公演程度が限界*4で、結局好きな役者を優先するのでなかなか世界が広がらない。
観劇歴は6年を超えるが、なんだかんだ未だに四季の公演は見たことがないし、新感線にも行ったことはない。
それでも、私は舞台観劇が好きだ。
ドラマや映画も好きだが、生の舞台はまた違った魅力がある。
その魅力的な舞台を気軽に見に行ける都民や関東在住の人たちが羨ましいなと思いつつ、今日も舞台の公演時間と夜行バスの時刻表を睨めっこしている。