追悼ライヴという名の公開法事
追悼商法、という言葉を時折耳にする。
本日、今年の5月に行われたZARDのフィルムコンサート*1が映像化されることが発表された。
ZARDといえば07年にボーカルであり事実上唯一のメンバーであった坂井泉水*2が逝去した後もフィルムコンサートを開催したり、未発表音源をリリースしたりと事務所主導で行われ、そのたびにファンを中心に物議を醸してきた。
00年代といえばビーイングからヒット曲を飛ばせる新人が出なくなった頃であり、ZARDというファンの多いコンテンツから金を搾り取ろうとしているように見えても仕方がなかったと思う。
しかし、そのようなコンサートやリリースを喜ぶファンも確かに存在する。
遡れば美空ひばりに尾崎豊にジョン・レノンなど、死後もリバイバルされたり関連CDがリリースされた例は数えきれないはずだ。
本当に、追悼ライヴは事務所とレコード会社が稼ぐためだけのものなのだろうか。
この問題を考える時、まず「こんなこと亡くなった本人は望んでいない」という意見が思い浮かぶ。
また、遺族の気持ち、ファンの気持ちといったものはよく代弁される。
しかし意外と、生前親交のあった仕事仲間=ミュージシャンやスタッフたちの存在は置き去りにしがちだったように思う。
今年はZARDのデビュー25周年に当たる年だったため、25周年特番というものがネットで放送された。
その中でレコーディングやライヴに携わるなど親交のあったミュージシャンのインタビューがあったのだが、そこに私の好きなdoaというバンドの徳永氏と大田氏*3も出演したため、私もその番組を見た。
そこで私はほぼ初めて、遺されたミュージシャンたちの想いを耳にしたように思う。
その時ふと、追悼ライヴというのはある種の公開法事のようなものなのかなと感じた。
少し話は脱線するが、ここで葬儀と法事の存在意義について考えてみたい。
まずはこの記事を読んでほしい。
葬式や法要を行うのは、亡くなった人を供養することだけが目的ではありませんよ!最近は葬式を行うことに疑問を投げかけ「葬式なんて金がかかるだけ、死んだ人間に金をかける必要なんて何処にあるの?」といった意見を耳にしますが・・・とんでもありません!
わたし達日本人は古来から、大切な人が亡くなった時に味わう辛さや苦しみを、しっかりと乗り越えることが出来るように、仏教の葬式や法要という儀式を通じて心の整理を付けてきたから前を向いて歩んでこれました。
私も最近、身近な者の死とそれに伴う葬儀、法要を体験したため、この記事にはおおむね同意だ。
むしろ、私の漠然と感じていたことを綺麗にまとめてあって驚いた。
葬儀や法要は確かに死者のためのものでもある。
しかし、やはり遺された者が心の整理をする儀式という側面も強いと思う。
気持ちの区切りをつける儀式がなければ、たぶんずっとずるずるその喪失感に引きずられて、それこそロス症状になってしまうんじゃないだろうか。
これを踏まえて、追悼ライヴに話を戻そう。
前述の通り、追悼ライヴは公開法事のようなものなのではないかと私は思う。
残された近しい人たちが思い出を曲に乗せて演奏するのをファンが聞く、そしてまた気持ちを整理する、そういう儀式なのではないか。
例の番組でのインタビューを見て、実は追悼ライブという名の公開法事がないと気持ちの整理を付けられないのは、ファンじゃなく近しいミュージシャン側なんじゃないかなと思った。
だから彼らは何度でも集まるし、何度でも演奏する。
きっとファンには、彼らの喪失感は計り知れない。
確かに事務所やレコード会社の思惑もあるだろう。
しかし、こうして皆で故人を偲ぶ機会があるということは、不幸中の幸いなのかもしれないとも思う。
関連CDのリリースに関してはまた別の話になるので、今回は触れない。
私は諸手を挙げて賛成はしないが、頭ごなしに否定もしないという立場であることだけ、書かせておいていただく。
*1:バンドは多数のアーティストによる生音である
*2:T.M.Revolutionのようにソロプロジェクトと認識される場合もある
*3:徳永氏は主に作編曲、ベース、コーラス、大田氏はコーラスとギターで参加