性別の概念がないということ
私がセクシャルマイノリティであることに気付いたのは、20歳前後のことだったと思う。
高校生の頃から同性の同級生にときめいたり執着したり、まさに「恋」のような感情を抱いていたが、女子校だったこともあり、思春期にありがちな一時的なものだと思っていた。
そして、私が自分自身が「女性」であること自体を疑い始めたのは、つい最近のことである。
90年代~00年代には、腐女子の自己紹介の定型文として「生物学的には女性」、「一応女」などの文言が使われていた。
しかし私はそれとは別に、本当に自分のことを「中性」なのではないかと感じていたが、「男っぽい部分も持ち合わせた女性」ということで自分を納得させていた。
そんな時、「Xジェンダー」という言葉を知り、私はもしかしてXジェンダーなのではないかと思い始めたのだ。
そもそも私は、幼稚園*1時代からジェンダーというものが大嫌いだった。
工作の時間に配られる折り紙、お絵描きの時間に渡される絵具、遊びの時間に女の子はおままごと*2、男の子はヒーローごっこ、そのような区別に息苦しさを感じていた。
私はあえて男女どちらのイメージもない黄色や白や紫を選び、男の子たちと一緒にヒーローごっこもした。
小学校は幸か不幸かランドセルがなく、既定の水色の肩掛けカバンを男女共に使用していた。
少女漫画はあまり好みではなく、コロコロコミックとコミックボンボンを愛読し、ミニ四駆を集めていた。
おかげで男子と会話する機会が多く、女子からはあまりよく思われてなかったようである。
普通は小学生低学年で卒業すると言われるヒーローものも、高学年になるまで楽しんで視聴していた記憶がある。
女子っぽいものが嫌いかと言えば、そういうわけでもない。
可愛い洋服やドレスを着た女の子のイラストを描くのが好きで、いわゆる少女小説も読んでいたし、占いやおまじないといったオカルトの類も信じていた。
中学生になると好んでピンク色を使ったり、キティちゃんグッズを集め始めたりするようにもなる。
いわゆる商業BLコミックを読み始めたのも中学の頃だ。
しかし、相変わらず私はジェンダーに強い嫌悪感を持っている。
「男らしさ」、「女らしさ」というものが分からない。
性別によって役割が決まっているのが理解できない。
体力的に男の方が優れているというのは平均的な話であって、例えば吉田沙保里より強い男性はどれくらいいるだろう。
性別によって選択肢が狭まることが許せないのかもしれない。
高校を卒業し、幾度か恋愛を経験したことで私はセクシャルマイノリティであることを認識した。
同級生の次に好きになったのは、私より少し年下の女性だった。
まるで妹のように感じ、彼女を守りたいと思った。
その後も好きになった相手は女性ばかり。
けれど男性に恋愛感情を抱かないわけではなく、大学のサークルで出会った男性の先輩に優しく接してもらうたびにときめくなど、男性に好意を抱いたこともあった。*3
そこで私が出した結論は、「私には恋愛に性別の概念がないのだ」ということ。
私が女性として生きているために女性と接し女性に惹かれる機会が多かっただけで、男女関係なく好きになった相手が恋愛対象、ということらしい。
バイセクシャルということになるのかもしれないが、他人への性的な欲望を抱くことがほとんどないので*4、デミセクシャルに近いのかなとも思う。
その後、「Xジェンダー」という言葉に出会った。
Xジェンダーの指す性のありかたは一通りではない。
女性・男性の性別のいずれでもない性別を区分するかぎりでは、中性というあり方、無性というあり方、両性というあり方、性別という枠組みから脱するというあり方、女性か男性か定まりきらない流動的であるというあり方など人により様々である。
とある。
中性とは、男と女、その中間の者。
無性とは、男でも女でもない者。
両性とは、男でもあり女でもある者。
という意味だと解釈すれば、私は「両性」という言葉が一番当てはまるのかもしれない。*5
もしそうだとすれば、私は男でもあり女でもあるわけだから、恋愛対象は男でもあり女でもあるという事実は何ら不自然ではない。
そろそろ同級生の多くが結婚、出産を経験する年齢である。
実際にFBなどでもそのような報告を多く目にする。
「女性としての幸せ」、という言葉にイライラが止まらない。