私が双極性障害と診断されるまで4
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前回はうつと診断されてから4年経ち、大学を休学して母と同居することになったところまで書いた。
実は、母と同居するようになるまでには、一つの事件があった。
パニック発作だ。
実は今までにも、ストレスや緊張を感じることで動悸が激しくなったり、呼吸が苦しくなったり、とてつもない不安感に襲われたりすることが何度かあった。
元々緊張しやすい性格だったので、あまり気に留めていなかったのだが、この時は家からも実家からも遠く離れた場所で起きてしまった。
その日、私はライヴツアーの地方公演に参加するため、遠方に来ていた。
前日地方公演に参戦し、その日は観光などをしていた。
強制送還事件のこともあり、一人で行かせるのは不安という母とは、翌日東京で合流して東京公演に共に参戦する約束になっていた。
しかし、一人で観光をしている途中に急に体調を崩したのだ。
不安感、そして動悸と息苦しさ。
翌日まで一人でいることは無理だと判断した私は、母にヘルプの電話をした。
そしてその日のうちに東京に移動し、先に東京に来ていた母と合流した。
ホテルに無理を言ってツインの部屋に変えてもらい、一泊し、予定通り翌日のライヴに参戦して帰宅した。
その一連のことをY先生に話したところ、しばらく母と一緒にいるのがいいと提案された。
当時の私は、ちょっとしたことで不安になり、気持ちが落ち着かなかったのだ。
母と同居することになり、私はほぼ上げ膳据え膳状態で寝たきりに近い生活になった。
昼頃まで眠り、昼ドラやワイドショーを見ながら昼食を摂り、漫画や雑誌を読み、夕飯を食べ、深夜までネットをして就寝。
そんな毎日を繰り返した。
母にはものすごく気を遣わせたと思う。
買い物などで家を空けている間に私が目を覚ましてはいけないので、なるべく朝早く買い物に行ったり、家事も私を起こさないよう静かにしなければならなかったり、深夜まで起きている私のせいで満足に眠れなかったり……。
今思うと、感謝の気持ちしかない。
そんな生活が、一年近く続いただろうか。
私は、時折一人で外出できるまでに回復した。
家で一人で過ごしていても、不安を感じることがなくなった。
結局冬が来る頃には母は実家に帰り、とりあえず私は翌年から大学に復帰することになった。
1回生→1年休学→2回生→1年休学→3回生→1年休学→4回生、となるので、学年は4回生だが在籍は7年目となる。
大学には最大8年しか在籍できないので、あと2年以内で何とか卒業しなければならない。
そのためには、単位も出席日数もかなりぎりぎりだった。
結局その年は、大学に入学してからの7年間の中では、最もまともに授業に出ることができた一年だったように思う。
1回生の時は授業に出られなくなったのは12月以降だが、結局後期の試験を受けることができなかったため単位を落としている。
この時は休みがちな授業もあったとはいえ、試験はきちんと全部受け、レポートもちゃんと提出した。
もちろん点数が悪く落としてしまった単位もあるが、あと一年、何とかまともに大学に通うことができれば卒業に手が届く、という状況だった。
しかし結局、大学8年目の5回生となる翌年が、私の人生の大きなターニングポイントとなった。
つまり、大学を自主退学することになったのだ。
「女子やめたい」って、何になりたいの?
女子力の高い男性が増えている。
というか、正しくは女子力の高い一面をピックアップされる機会が増えたということだろうか。
料理など家事が得意だったり、美容やファッションへの余念がなかったり、可愛いものに対して敏感だったり。
もしくは女装してみたり。
男性芸能人のそういう面が、TVやブログなどで披露されている。
それに対して、女性からのこんな意見をよく見る。
「女子として負けた」
「女子やめたい」
「女子として負ける」ってどういうことなんだろう?
間違いなく、生物学的にあなたは女性ですよ。
相手は生物学的に男性なんですよ。
圧倒的にあなたの方が女子なんです。
「女子やめたい」ってどういう意味なんだろう?
やめたい、と言って簡単にやめられるものなら、トランスやXの人たちはこんなに悩んだり苦しんだりしてないと思う。
それに、女子をやめて何になるつもりなのか。
まさか男性になろうというのか?
おそらく、そのような発言は軽い気持ちで発されていると思う。
けれど、普段から自分の性別に違和感を持っている私のような人間にとっては大きな違和感があり、神経を逆撫でしてしまう言葉なのだ。
そもそも「女子力」って何なの?
初めて女の子に恋をした話
私は「女性」として生を受けた。
しかし、幼い頃から性別の壁がとてつもなく苦痛で、何とかそれをぶち壊したいと思っていた。
それなのに、私が入学したのは中高一貫の女子校だった。
地元では進学校として知られていたので、勉強ができれば女子校だろうが共学だろうが構わないと思っていた。
私は「女性」として育てられた。
小学生の頃は「女子」として扱われたし、「女子」のグループと一緒に遊んだり下校したりすることが多かった。
やがておませな子たちは「好きな人」の話をしたがるようになり、「好きな人教えて。誰にも内緒にするから」と幾度も聞かれた。
私は「女性」は「男性」を好きになるのが自然なのだと思い、ほんの少し「かっこいいな」、「優しいな」、「一緒にいて楽しいな」と思う男子のことを「好きな人」として話した。
今思うとそれは確かに「好きな人」だったのだろうが、本当に「恋」だったのだろうか。
小学生の幼い恋、と思えばそれはそれで間違いではないような気もするが。
私は「女性」として女子校に進学した。
そこで出会ったのが、私が後に好きになることになる女の子、仮に「Aちゃん」と呼ぶことにしよう。
Aちゃんとは同じクラスで、入学直後のオリエンテーションでも同じグループだった。
それぞれ違う小学校から進学していたため、そのグループがそのままクラスでの仲良しグループになった。
中2、中3はAちゃんとは別のクラスだった。
始業前、休憩時間、終業後がAちゃんと過ごせる時間だった。
基本的には中学入学直後の仲良しグループの5人で過ごすことが多かったが、次第に私はAちゃんと過ごすことが多くなった。
単純に、共通の話題が増えたためだ。
グループ全員がいわゆるヲタクで好きなジャンルも少しずつ被っていたが、音楽が好きで主に小説を書くのは私とAちゃんだった。
Aちゃんはとても頭がいい子だった。
もちろん進学校なので飛び抜けて成績がいいわけではなかったが、勉強以外の雑学や時事問題といった学校では習わないことも詳しかった。
私も雑学や時事問題には興味があったので、非常に話が合った。
可愛いかどうかといえば……まあ、普通だと思う。
しかし、身長がすらりと高く、スタイルがよかった。
とにかく、一緒にいる時間がとても楽しい子だった。
いつしか私は少しでも早くAちゃんに会いたくて、学校に少し早く登校するようになった。
毎晩、Aちゃんに手紙を書いた。*1
授業中にも手紙を書いた。*2
連休ともなれば、家の電話で長電話をして家族に怒られた。*3
少し依存しすぎているような気はしたが、それでも行き過ぎた友情だと思っていた。
私が、恋している自覚をしたのはおそらく、高校1年生になった初日だった。
私の学校では中学生と高校生では制服のデザインが少し違い、初めて高校生の制服を着たAちゃんを見て、ときめいてしまったのだ。
大人っぽくてかっこよくて、きゅんとしてしまった。
その後、色々とあって徐々に擦れ違い、私たちは縁を切ることになる。
当時はAちゃんのことを恨みもした。
未練もあった。
けれど今は、彼女が元気で幸せでいればそれでいいかな、と思っている。
私が双極性障害と診断されるまで3
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前回は、ネット上での晒し行為により心が折れ、Y先生のカウンセリングを受け始めるところまで話した。
この時点で「うつ」と診断されてから約2年半が経っている。
4度目の冬がやって来ようというタイミングだった。
秋が終わり、冬が始まる頃、抗うつ剤とカウンセリングによる本格的な治療が始まった。
私はものすごく精神的に不安定だった。
ちょうどその頃に参戦したライヴでは、最初から最後まで終始泣きっぱなしという情緒不安定さだった。
しかし、冬が深まるにつれ抗うつ剤や向精神薬の効き目が表れ始め、私は感情をなくした。
完全になくなったわけではないが、情緒の起伏が極めて平坦になった。
簡単に説明すれば、あまり笑わなくなった。
TVを見たりして、時折くすっと笑う程度である。
そして、自傷行為がどんどんとエスカレートした。
結果として、翌年はまた休学することとなった。
1回生→1年休学→2回生→1年休学、なので、休学が明ける頃は私が1回生の頃に同級生だった友人たちが、卒業した後ということになる。
焦りも悔しさもあった。
しかし、この状況ではそうせざるを得なかった。
時を前後して、私は派遣のバイトに登録をした。
学校に通えなくとも、趣味にはお金がかかる。
ならば、日払いのバイトでもしてみよう、という安易な動機だった。
大体1日か2日、あるいは研修の日も入れて3日間とか、そういう短期のバイトだけを受けた。
内容的には倉庫業務(検品、値付け、箱詰めなど)や、工場での手伝い、アンケート調査にビラ配り、交通量調査もやった。
そんなに頻繁に仕事の依頼が来るわけではないので、大体月1万~2万、もしくは全く仕事の来ない月もあった。
一般的な接客バイトなどとはかけ離れているが、様々な業種の色々な面を見て知ることができ、いい社会経験になったと今では思う。
オチとしては、登録していた派遣会社が問題を起こして廃業した某人材派遣会社の子会社だったため、時を同じくして私の登録も終了したということだろうか。
さて、派遣バイトと同人誌製作、ライヴ参戦に明け暮れる一年が始まった。
とはいえ、比重としては ライヴ>>>>>同人誌>>>>>>>>>>バイト くらいである。
おそらく、私が人生で一番ライヴに参戦した一年になったと思う。
月に2度はライヴハウスに通っていた記憶がある。
その他、ラジオの公開放送、インストアなどのフリーライヴにも頻繁に出かけた。
好きなことはできるのに、何で学校に行けないんだろうと自分を責めたりもした。
かろうじて食事作り等の家事は出来ていたが、部屋の片付けはほとんど出来ず、まるでゴミ屋敷のようだった。
自室だけは同居人とお互いに不干渉だったので、ひどくなっていくばかりであった。
その年の初夏、ネット上でとあるトラブルに見舞われ、うつ状態と疑心暗鬼が悪化し、学校にぱったりと通えなくなるということがあった。
ネット上で知り合った友人の中には私の見方をしてくれる者もいたが、匿名で私を攻撃してくる者がいるという恐怖に耐えきれなかった。
仕方なく一旦ブログの更新は停止し、当時ブームとなっていたmixiで限定的に日記を公開するようになった。
結局学校にはほとんど通えなくなったため、翌年は休学することとなった。
相変わらず自分の興味のあることしかできない状態ではあったが、大学のサークルに顔を出すなど、学校への恐怖感、拒絶感などはなくなっていた。
そしてその年の冬、私はとある事件を起こす。
自殺未遂だ。
きっかけはよく覚えていない。
とにかく精神的な落ち込みがひどく、更に季節的なものもあってか過去に好きだった友人と別れた時のことがフラッシュバックし、心が堪え切れられなくなった。
気が付いた時、私は実家にいた。
ぼんやりと、病院のベッドにいた記憶、父に支えられてふらふらしながら駅を歩く記憶はあった。
詳しく聞くと、同居人が帰宅した時、私は眠剤を大量に飲み、腕を血だらけにしていたらしい。
同居人は慌てて両親に連絡を取り、救急車を呼んだ。
もちろん緊急入院である。
幸いなことに当時住んでいた家からほど近い場所に救急病院があり、同居人は後から着替えなど必要なものを取りに帰ってくれた。
翌日、父が私を実家に連れて帰るために病院にやって来た。
大量に飲んだ薬のせいで意識は朦朧としていたが、傷も縫合し終わり、病院としては特に入院させる必要がないので実家で両親の目の届くところで静養するようにと言われた。
私はこの事件を、「強制送還事件」と呼んでいる。
それから約2ヶ月ほど、私は実家で過ごした。
春からは、もう一年休学することが決まった。
しかしバイトや同人誌即売会やライヴなど色々とあったのでずっと実家にいるわけにはいかず、Y先生にもすぐに会える方がいいとのことで、母と一緒に暮らすことを条件に大学の近くの家に戻る。
同居人と入れ替わりに、母と一緒に住むことになる。
大学に入学して6年目、うつと診断されてから5年目の春のことだった。
生きるための自傷行為とは
この記事の中で、私が自傷行為をしていた頃のことを少し書いた。
今回はその頃の私の心理状態、自分を傷付けた理由、今になって思うことなどを書いてみたいと思う。
※この記事には生々しい自傷行為に関する表現があります。精神的に不安定な方、影響を受けやすい方は閲覧を控えるなどご注意ください。
まず、「自傷行為」と死ぬことを目的に自分を傷付ける「自殺未遂」は別物としてこの記事では扱う。
私が自傷行為を始めたのは、うつと診断されて3年ほど経った頃のことだった。
しかし実は、中学生の頃も自傷行為っぽいことはしていた。
剃刀やカッターなどで、手首や胸元を傷付けるのだ。
服で隠れる場所なのがミソで、つまり傷に気付くのは家族くらいしかいない。
当時の私は、家族の中に居場所がなく、寂しい思いをしていた。
なので心配してもらいたくて、気にかけてもらいたくて、自分を傷付けていた。
よくあるかまってちゃんのリスカだ。
けれど、うつと診断されてからのそれは違った。
きっかけは、当時ブログなどを通じて知り合った友人の何人かが精神を病んでいて、自傷行為をブログで報告しているのを見たことだった。
精神的に不安定な時、落ち込む出来事があった時、自傷行為をすることで落ち着いたと書かれていた。
そんなに効果のあるものなら自分もしてみたい、そう思った。
まるで違法薬物に手を出すのと同じような構図だが、実際に私はどんどん自傷行為がエスカレートしたし、行為自体に依存するようにもなった。
中学生の頃と明らかに違ったのは、服を着ていても目に見える手の甲に近い場所にも傷跡を作っていたことだろう。
当時の私には同居人はいたが両親とは離れて暮らしていたため、家族だけに見える場所に傷を作る必要はなかった。
そもそも、誰かの気を引くことが目的でもなかった。
自分を傷付けること、その行為自体に安心感をおぼえていた。
当時の私は、自己嫌悪、加害妄想、他人を傷付けることや嫌われることへの恐怖がとても大きかった。
自己評価がとてつもなく低く、自分を罰せなければならないと思っていた。
その自分を罰する行為のひとつが、自傷だった。
痛みが、流れ落ちる血液が、自分の罪を軽くしていくような気がしていた。
行為がエスカレートした私は、毎晩のように風呂場で自傷を繰り返した。
洗面器にお湯をためて、そこに左腕を突っ込んで、お湯が真っ赤になるまで切った。
何度か傷が塞がらなくなり、外科で縫合してもらったこともある。
最終的には切りすぎて皮膚が非常に薄くなってしまったため、次はもうこれ以上縫えない、傷が塞げないとまで言われた。
結果的に私の左腕は肘の近くまでびっしりと傷跡だらけで、ケロイド状になっている。
傷跡が赤く引き攣れていた頃はあまりに見た目が醜いので、半袖の服など着ることができなかった。
現在は傷の色も肌色になり、近くで見なければあまり気にならないため、半袖の服も着るし、何か聞かれた時は怪我や火傷の痕だと答えている。*1
最後に自傷行為をしたのは、この記事の時だと思う。
しかし、この時は明確に自殺をするつもりで傷付けたので、正しくは「自傷」ではなく「自殺未遂」である。
となると、私はもう少し早い段階で自傷癖から抜け出している。
理由ははっきりとは覚えていないが、「もうやめよう」と強く思ったことは確かだ。
「もうやめよう」と思うまでには時間がかかった。
何故ならそれまで、私は医者や家族に止められても、「私は生きるために切っているのだ!」と強く主張していたからだ。
実際、自分を傷付けることで自分を罰し、そして心が軽くなっていた。
自傷行為をしていなかったらどうなっていたかは分からないが、もしかすると心が壊れていたかもしれないし、もしかすると傷付ける対象が自分以外に向かっていたかもしれない。
なので、私は今自傷行為をやめられない人に対して、非難はしない。
否定もしない。
けれど、肯定もしない。
できれば早く、「やめよう」と思ってほしい。
それを行動に移してほしい。
きっと、自傷行為をした後で後悔の念に苛まれる人も少なくないと思う。
私もそうだった。
「やめよう」と思っても、本当にやめるまでには時間がかかった。
とにかく強い意志が必要なのだと思う。
禁煙やアルコール依存症と同じようなものではないだろうか。
そしてもしそうだとしたら、周りの人間は責めるのではなく、理解してあげてほしい。
自殺未遂は別として、「死にたい」ではなく「生きたい」と思って自分を傷付けている人は多いと思う。
そんなことして自分を責めなくても許されていることを、伝えてほしい。
そして自傷行為をやめようと頑張っているなら、今日も我慢できてよく頑張った、と褒めてあげてほしい。
以上はあくまで私の体験をもとにした個人の意見である。
全ての自傷行為をする者に当てはまるとは限らない。
ただ、私にとっての自傷行為は「生きるための躊躇い傷」であったと、今振り返ってみて思う。